ココアティックナイトトーク

「跡部くん、開けてー」
左手に救急箱を、右手に温かい湯気のたつココアをふたつ。自室のドアの前でそう呼ぶと、静かにドアが開いた。
「おまたせ」
そして俺はできるだけやわらかく、やさしく笑った。
「直るかな、コレ」
「中の金具返ればいけんだろ、それでもだめなら買ってやる」
ふたりでベットに寄りかかって目の前の惨状をぼんやりと眺める。
俺が指したコレとは壁に引っ掛ける形でつけてあった飾り棚。過去形なのはそれが今は床にひっくり返っているからだ。俺の部屋だったここは、今は泥棒が入ったみたいにぐちゃぐちゃに荒れている。
何でこんな状態になったのかって言えばもちろん泥棒が入ったわけではなく、思春期の少年二人が家庭内暴力を振るった結果。いや、家庭内じゃないけど。
「ああ、プーさんは無事だ」
跡部くんと俺の間の木製のトレイにマグカップを置いて、例の飾り棚に載せてあった黄色い熊の足を掴んで手繰り寄せる。有名な黄色い熊は変わらずに世界中の人々が安心して抱きしめられる顔をして笑っていた。
隣の跡部くんがふいに息をついた。
「久しぶりに飲んだ」
マグカップの中身に視線を送りながら、乱暴に髪の毛を拭く。きれいだな、と思う。
「コーヒーにしようかとも思ったんだけどね」
今は苦すぎるんじゃないかなって思って、なんて事は言わなかった。もう一度トレイからココアを取って、ゆっくりと口に含む。おいしい。
「たまには、いいでしょ」
にっこりと笑うと、跡部くんもああ、と言った。
「いいのか?」
しばらく沈黙があってからそんなふうに跡部くんが口を開いた。
「何が?」
「コレだよ、血付いちまうぞ」
そこでようやく俺は跡部くんが案じていることを理解した。白いパジャマだった。着替えとしてこのパジャマを渡して風呂場に送るとき、実は少しだけ考えた。
「ああ……でももう着ちゃったし、平気でしょ」
シャワーで幾分血は流れてるし、この寒い中裸でいるわけにもいかない。
「適当だな」
「それに、白いほうが漂白するとき楽だもん」
「ふーん」
俺と跡部は喧嘩をした、喧嘩というよりはただ殴り合いった、のほうがいいかもしれないけど。おかげで部屋はぐちゃぐちゃだし、俺の顔にも跡部くんの顔にも、もっと言えば身体にも、無数の傷跡がある。
ちなみに俺が今一番痛いと思うのは右腕の肘から手に向かって斜めに大きく走る傷。殴られた拍子に例の飾り棚をつけていた壁の釘に引っ掛けてできたそれだった。蚯蚓腫れを一歩だけ過ぎてしまったようなその傷はシャワーを浴びるまでは一定のリズムで血が溢れていたが、今は落ち着いていた。
「でもまぁ、よくもここまでやったもんだよねえ」
「先に手ぇ出したのはお前だろ」
まったくそのとおりで、我慢できなくなって跡部の端正な顔に傷を作ったのは俺だった。
「まぁね、ごめん」
「手、出せ」
気づいていたのに少しびっくりしながらゆっくりと右腕を跡部の前に差し出す。跡部はパジャマをまくって傷の全貌をあらわにさせると、形の良い眉毛を少し動かした。
「俺じゃねえよな」
「うん、あそこに出てる釘みたいなの、その棚引っ掛けてたやつ」
左手で正面の壁を指すと隣で舌打ちする音が聞こえた。
「貸せ」
ココアと一緒に持ってきておいた救急箱を床にスライドさせる。枕元に置いてある箱のティッシュも身体を捻って取った。
「俺も、ずっと気になってたんだよ」
「あ?」
ココアのトレイの隣に位置を決めた救急箱から青いフタの消毒液を出して、ティッシュに染み込ませる。左手しか使えないからちょっと難しかった。その後で、消毒液を跡部に渡す。
「しみるかもしれないけど、我慢してよ」
言いながら、跡部の左の頬から口脇にかけて、俺が殴った痕に手を伸ばす。ココアの入ったサーモマグを引っ掛けないように気をつけて。
近づいた美しい顔をまじまじと見ると、自分の犯したことのデカさに少しぞくりとした。
「結構深いな」
「一番、そこが痛い」
俺のしたようにティッシュに消毒液をしみこませようとしていた跡部だったけど、俺の言葉を聞くと箱からさらにティッシュを3,4枚取り出した。
「動かすなよ」
「うん」
傷口を上にして、ティッシュを下に当てると消毒液を直接吹きかける。ぴりっとしたのは最初だけで、あとは濡れていく感触しかなかった。
「化膿しそうならすぐ病院いけ」
消毒し終えたその疵は、赤い道のように固まっていた。俺はそれを少し見てから分かった、と言った。
「絆創膏じゃ小さすぎるよね、でっかいやつあったかな」
「お前のは血止まってるから、いいよな」
「うん、ああ、あった」
自由になった左手も使って救急箱を漁る。見つけたのは5枚パックのビッグサイズ絆創膏。確か姉ちゃんが買ってきたやつだった。もらうよ、と心の中で了承を得てから透明なシートを剥がす。口元にかからないようにして注意深く絆創膏を貼っていく。に触れた指が感じた温度は思いのほか冷たかった。指が離せない。
「何だ?」
不思議そうな跡部にううん、と首を振って。
「ココア、飲もうか」
跡部のキスは多分肯定の意味だ。