波音に君は泣く

午前10時49分。今日の待ち合わせ場所、東口の時計広場。
そこには、でっかいでっかい誰か有名なカメラマンが撮ったらしい海の写真が飾ってあった。
「なに、お前海行きたいの?」
よっぽど俺がそれを熱心に見つめてたのか、5分前ぴったりに来た彼の第一声はそれだった。
「うん、まぁ。海って言うか、夏っぽいところ。行きたかったなぁって。……あ、焼けたね、跡部くん」
今年はテニス三昧だったし、一応受験生だったし。なんて付け加えながらようやく視線を向ける。跡部くんも、その写真を見ながら言った。
「……来年行くか」
「そだね、行きたいね」
その他愛無い、幸せの言葉が、俺の真ん中をちくり、と刺した。
鑑賞した映画は期待してたより全然面白くて大満足だった。跡部くんも気に入ったみたいで、あそこのシーンが良いとか、あのヒロインは何かのオーディションで選ばれた子らしいとか、そんな適当な評論を2人でしながら遅めの昼食を取って、駅に戻ってきた。
跡部くんと会えるのは結構久しぶりで、出かけるのはもっと久しぶりで、俺はちょっとはしゃいでいた。それは跡部くんも同じようで、俺のようにやたらにこにこしてる訳じゃないけど、いつもと同じような無愛想な彼が纏う雰囲気が何かすんごく心地よかった。
なのに。この幸せのど真ん中に居ながらにして、何かが俺を刺していた。ほら、また。ちくり。
「後、6分か」
今度5時12分。プラットホームの電光掲示板にそう表示されるのを見ながら跡部くんが小さく呟いた。いつもより早い帰宅理由は、俺が留学から一時帰宅してくる姉ちゃんの迎えを頼まれてるから。
跡部くんと次遊ぶのも、未定だ。隣の跡部くんを盗み見て、そんなふうに思う。学校が違う俺等にとって、時間が無いのは結構切実な問題だったりする。

来年行くか。ふと、あの写真と言葉を思い出す。

瞬間、身体がぞわっとした。静かに、何かに落ちていく、飲まれていく、導火線に火を着けたように、迫ってくる何か。いやだ、こわい。

「ちょ、待て。お前どこ向かって」

一瞬にしてモノクロになった世界で、その感情だけが鮮やかに、俺の心を貫いた。体が勝手に動いてる。ゆっくり、跡部くんの腕をとって、反対車線まで向かった。
あまりにも悠然と見える俺に戸惑った跡部くんは、不思議とそのままでいた。
電車のドアが開いた。
ちょ、おい、千石? 待てって。3番線、電車が参ります。白線の内側にお下がり下さい。
跡部くんの慌てた声も、俺等が乗るはずだった電車が来たことを告げるアナウンスも、すべて通り過ぎた。
ゆっくり、だったと思う。そのまま俺が跡部くんの身体を、その電車に押し込んだのは。
「!?」
「あ」
プシュー、と言う音がしたのを聞いたときはもう既に遅くて、その列車は俺等を乗せて走り出していた。
「……千石?」
「あ、あれ……?」
いきなりこんな電車に乗せた俺の行動を思い切り不審がって跡部くんが端整な眉をひそめる。でも今の俺にはぶっちゃけそんなこと気にする余裕とか欠片もない。
ちょっと待て、俺!! なにやってんの!? うわ、跡部くんがホントに形容し難い顔してこっち見てる!
「あ、あれーーーっ?」
「うわ、コレ止まんねぇ」
「ご、ごめんっ」
反射的に謝ったけど、謝るようなことをした原因が分からない。本能のまま動いてるように見られる割に常日頃から考えて動くタイプの俺だからこんなことに免疫とか無くて、もう本当に頭は大混乱だった。
「あれ? あれー???」
「あー。とりあえず座れ」
巻き込まれた跡部くんの方が落ち着いて、そう言いながら藍色のシートに腰かけた。俺もそれに促されて反対の席に座る。
「それで、お前は何処に行きたいんだ?」
「ええと、きみとなら、何処にでも」
とりあえず気を落ち着けようと冗談を吐いたらグーで殴られた。
その電車の座席は向かい合わせに作られてて、俺達のほかに人は居なかった。係員さんが切符を売りに来たときに行き先を聞いた。ウチの最寄り駅から乗る下り電車の終点駅の、その先の、小さい街に着くらしい。
2枚切符を買った。車内販売は若干高かった。目的地には、1時間程度で着くらしい。
「ご、ごめんね? いいの?」
主語はもちろん、強制的に始まったアフター5小旅行で。
「ダメでも、勝手に連れてかれんだから、しょうがねぇだろ。……お前は家いいのかよ」
「あー、うん、メールしとく」
姉ちゃんゴメン。なんて思いながら携帯をいじくる。まぁ、子どもでもないし、1人で帰るくらいできるっしょ。マナーモードにしてたので、カシカシカシとボタンを押す味気ない音が響いた。最初のうちはとり止めの無い話をどちらかともなくしてたけど、時間が経つにつれて、心地よい静寂が俺等を纏っていた。今、向かいの席に座った跡部くんは少しだけ開けた窓から入ってくる風に綺麗な髪を遊ばせながら遠くを見ている。
こういうとき、本当に綺麗な人だと思う。また、ちくり、と刺された。

「あ」
「へ?」

しばらくして不意に跡部くんが声をあげた。ぼおっと跡部くんを見てた俺はびっくりして反射的に声を漏らす。跡部くんが指で外を指した。

「海。見えるぞ」
「え! マジ?」

身を乗り出して外をうかがう。広い青が見えた。

「おー!! うみだー!!」

ものすごい早業で靴を脱ぎ捨てると海に突入する。もう9月だけど、まだムシムシした暑さは健在で、そんな中水の感触は心地よかった。
「アホっぽいぞ」
「いやだって海ですし。てか俺すごくない!? 適当な電車乗ったら海来れちゃったよ!?」
駅について、備えてあった簡単な地図を見るまでもなく、俺等はここまで来ることができた。
「きっとあの電車に君を押し込んだのも、これが本能で分かってたんだよ~! 海が俺を呼んだんだねぇ」
「お前は魚人か? それとも自殺志願者か?」
「人魚姫あたりで」
「……」
「いや、あの、心底軽蔑、みたいな目線は流石に痛いんですが」
あはは、なんて笑いながら心の中で謝罪する。水平線に向き直って、跡部くんから顔を見られないようにした。ゴメン、嘘吐いた。
人よりおそらく敏感であろう俺のシックスセンスは駅で欠片も反応しなかった。海の香りも、何も感知してません。
それでもとりあえず言い訳できるようなところに連れてきてくれる、相変わらずの俺のラッキーには本当頭が下がる。ぼんやりとそんな思考をめぐらせてると、跡部くんが波を蹴飛ばした。あ、いつのまにか裸足になってる。
「別に。海くらい、いつでも来れんだろ」
跡部くんがもう一回小さく波を蹴った。水しぶきが、舞う。瞬間何度目になるか分からない痛みが襲う。
「あ」
ああ、そうか。分かったよ。この痛みは恐怖だ。跡部くんに名前を呼ばれた気がする、でも一度始まった思考を遮断することは不可能だ。いつまでその言葉を覚えているのか。いつまできみとこうしているのか。いつまで君が当たり前に使う「次」に、俺が存在しているのか。
君の未来に存在できるのはとてもとても幸せでラッキーなんだけど。でも、この青い海がやがて朱に染まるように、全く違う色に変わることはないのか。
それを完璧に否定できない自分が何よりも怖い、と思ったんだ。臆病な俺は、暖かで幸せなものを疑わずにはいられないから。

この痛みはカウントダウン。俺が「次」に負けるまでの。

「わわっ!?」

そんなことを考えてたら凄い勢いで腕を引っ張られた。浅瀬とはいえ海に足を取られて思いっきりよろける。

「あ、跡部くん!? なに?」
「……あ?」

跡部くんは彼らしくない、ひどくゆっくりと、いやゆっくり自分の行動を認識するかのように俺の顔を見つめて、そのまま自分の左手に視線を動かした。
その穏やかな動作とは反対に、ひどく切羽詰ってる感じがした。なんとなく。

「…………何だ?」
「え? 嘘、ソレ俺に聞くの?」

跡部くんは自分の行動がよく分かってないようで、俺の腕から左手を放すとその掌を静かに見つめた。

「俺も君のこと電車に乗せちゃったけど、跡部くんもそーゆーことあるんだねぇ」

俺はそんな珍しい跡部くんに向かって今日の俺のあの行動を思い出してそう言った。大丈夫ー?とか言いながら目の前で手を振ってみる。
跡部くんが不意に口を開いて、もう一度俺の左手をしっかりと掴んだ。

「……お前が、泣くから」

風が吹いて、砂浜にあったバケツが転がった。太陽のオレンジが沈み始めた。

ちくり、どころじゃない。がらん、と何かが崩れた。

「泣くって、なんで?」

この場合、訳の分からないことを言ってるのは客観的に考えて、跡部くんであって。 俺がそれに困惑するのは別段おかしいことじゃないはずだ。大丈夫。不自然じゃない。

これは「跡部くんが変なことを言った」から戸惑ってるわけで、けして「跡部君が何か分からないけど核みたいなものを突いてきた」から慌ててるわけじゃない。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。

「……知らねぇよ、泣くな」
「俺泣いてないよ?」
「うるせぇ、泣くな」
「泣いて、ないってば」
「泣くな」

サヨナラ、俺の薄っぺらな防衛理論。がらがらがら、ともう痛みどころじゃなくて。多分全部、もうそれごと崩れて、崩れて。
泣くな、と言った跡部くんのまっすぐな瞳を見つめ返す。掴まれた右手がやけに熱い。

今、きみは俺の存在を必要としてくれてる。今、きみはきみの「次」に俺を欲している。

「うん、分かった」
「あぁ」

軽く目を伏せてそう言うと、跡部くんはぷい、と顔を背けてそっけなく答えた。

でもさ。ねえ、跡部くん。君の「次」と俺の「次」は全然違うんだよ。別にどっちがいい、とかじゃなくて「違う」んだ。

臆病者はいつだって保険が無いとだめで、笑って逃げられる場所が無いと、そこまで踏み出すこともできないんだ。

そんな俺の「次」に君を存在させていいんですか?振り返ったら、そこに君が居る「次」を望んでいいんですか?
なんて、主体的に考えたら眩暈がした、気がした。

「帰るぞ」
「うん」

もう辺りは薄暗くなっていたけど、またあの向かい席の電車に乗って帰るのは悪くない気がした。

海岸伝いの歩道を歩きながら、なんとなく隣の跡部くんの手をとる。跡部くんは何も言わず、俺にされるがままだった。
多分きっと、あの針はまた臆病な俺を刺すだろう。だけど、そのせいで、この手を放すのはいやだ。

繋いだ右手に少し力を込めると、握り返された。それがすごく愛しくて切なかったから俺は必死に笑ってたけど、本当はちょっと泣いた。
ごめん、さっき泣くなって言われたのにね。