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太刀川さんならいいか。いつのまにかそんなふうに思う瞬間が増えていた。
それは多対一の場面だけど絶対負けないから敵全部任せていいかの意味だったり、これあとで忍田さんに怒られるやつだけど別におれが言わなくていいかの意味だったり、やたらご機嫌だから髪を撫でてくる手のひらは受け入れてもいいかの意味だったり、様々だ。
だらしないから、信用してるから、優しいから、強いから、言い出したら聞かないから、どうせ本当のこと言わないから、戦闘ジャンキーだから。
そんなふうに太刀川と過ごす時間に比例して理由は無限に増えていく。実力への信頼と、親しさゆえの粗雑な甘え、そして自分が彼を許しているという不思議な充足感が、今日も出水の境界線をすこしずつ揺らしている。
その冬は三門市立大学と六頴館でインフルエンザが流行していた。はじめのうちは一人、二人欠員が出ている程度だったのが次第に隊の単位で防衛任務をまわすことも困難になり、あっという間にスケジュールを組んでいる職員たちが調整に苦心するような状況になってしまった。
幸いにも四人とも特に影響を受けずに済んでいた太刀川隊は、隊ではなく一人ずつバラしてシフトを組ませてほしいという要望を受け、個人単位でアサインされる任務に従事している。唯我だけはほかの三人の誰かとセットで動かしてもらうべきかと一瞬悩んだが、彼がスポンサーの息子であるということは職員の間でも周知の事実だし、これもいい経験だと判断し特に希望は出さなかった。
結果的にキャリアも長く、相手をいとわず合わせることができるA級隊員というカードは担当者たちをたいそう喜ばせ、太刀川隊はそれぞれ人数の欠けた部隊の穴埋めや、臨時の混成部隊への参加など、個人で稼働する日々が続いていた。
「大変申し訳ないんですが、明日六時から入ってもらえないでしょうか。C級合同部隊の人数が足らなくて、監督役がてら出水くんにお願いしたく……」
「えーっと、それは午後六時じゃないっすよね」
「七時間後の午前六時です……」
本当に申し訳ないとくしゃくしゃの表情で頭を下げたのは三十代前半くらいの事務職員だった。穏やかそうなたれ目の下にはうっすらとクマができており、出水よりもよっぽど彼の方が疲れていそうな印象を受ける。
「べつにいいっすよ、明日土曜だから学校もないし」
今しがた任務を終えて戻ってきたばかりなので、たしかに連続での稼働にはなるが断るほどではない。出水が了承すると、彼は更にぎゅっと目元にしわを寄せて感謝の言葉を繰り返しながら出水のアドレスに任務の詳細を送り、そのまま業務フロアへと戻っていった。そちらもおつかれさまです。
五時四〇分ロビー集合……もうこれ泊まった方がいいな。
すでに時刻は二十三時をまわっていた。出水は明朝任務の概要を確認し終えると、そのままデバイスで本部の仮眠室を予約する。トリオン体なら疲労はないし、任務が続くこと自体は構わないのだが、最近は生身でいる時間が短いせいですぐに眠れるかは微妙なところだった。
換装を解除し生身に戻り、泊まり用の荷物をピックアップするために隊室に立ち寄る。部屋には誰の姿もなかったけれど、ソファには国近が冬場によく包まっている紫と赤のチェック模様のブランケットが、テーブルの上には高そうな菓子の化粧箱が置いてあった。つやつやした箱の蓋をあけると正方形のショコラが宝石のように並んでいて、けれどその所々はぽかりと空白になっている。それぞれが好みのものをつまんで食べた光景が簡単に想像できて、自然と小さく笑みがこぼれた。出水もひとつ空白を増やして蓋を戻す。チョコレートは舌の上を滑り、すぐにとろけだして隊室を出るころにはかすかにナッツの風味を残して消えてしまった。
ボーダー本部基地は窓が少なく、建物の中にいると時間を感じにくいので二十一時を過ぎると自動的に照明が調整されるようになっている。どちらも人工的な明かりだと分かってはいるが、日中の混じりけのない白色の光より、この炎に似た赤い色味の方が暖かそうに感じるから不思議なものだ。
出水が夜の廊下を進んでいくとシャワーブースエリアの方からひとりの男が歩いてきた。見覚えのない長髪姿に一瞬反応が遅れ、しかしTシャツにハーフパンツという男の出で立ちに出水は確信を持つ。米屋だ。
「よお、そっちも泊まり?」
「そうだけど、おい今十二月だぞ」
「? うん、そーね。おつかれーい」
「……おー」
すれ違いざまカチューシャをつけていない髪の隙間からあっけらかんと返される。毎年のことながら信じられない。高校三年、受験シーズンに入って自由参加になった体育にも米屋はきっちり参加し半袖で走りまわっている。マジでどうなってんだこいつの体感温度。
目にしたこちらが寒くなったと出水が二の腕をこすりながらブースのドアを開くと、高めに設定された暖房と蒸気に迎えられ、自然ほっと息がもれる。シャワーは明日にまわし、手前に並んでいる洗面台で歯を磨いて顔を洗うと、改めて仮眠室が並ぶフロアの奥へと向かって歩き出した。
なんだ、誰か使ってんのか?
ステンレスのドアノブを下ろそうとしたところ、ゴツッという鈍い音とともに阻まれてしまい、出水は仮眠室の前で首をひねった。よく見ればドアは施錠されており、115という部屋番号の隣には「使用中」を知らせるランプも点いている。ただ手元の端末の予約画面と見比べてみても番号自体は一致しているので、こちらが間違えているわけでもなさそうだ。システムのエラーだろうか。
「―――あれ、出水じゃん」
「太刀川さん」
どうしたものかと思案するより早くドアが開き、黒いスウェットの上下という部屋着のような恰好で太刀川が現れた。だらしない生活態度に反してボーダーや大学では襟付きのシャツやジャケットという割ときちんと見える服を着ていることが多い彼にしてはめずらしいスタイルだ。ぽつぽつとまばらに短いひげが生えているのもあいまって、まるで自宅での寝起き姿のようだった。
「おれここ予約とったんですけど、太刀川さん間違えてない?」
上司相手に失礼な物言いではあるが、彼はあまりに前科が多い。太刀川の方も出水の言葉に気を悪くした様子もなく、いいや、と首を傾げた。
「多分あってる。俺じゃなくて職員の人が予約してくれて、直接ここ使ってくれって言われたんだよな」
「あー、じゃあ予約システムバグったとかすかね」
今から取れる別室はないかと端末の画面をスクロールするものの、零時近い時刻ということもありほとんどの部屋が埋まってしまっていた。
「部屋空いてないならここ使うか?」
「え、そしたら太刀川さんどうすんの」
「ん? 俺も使うけど」
「あーなるほど」
一瞬譲ってくれるのかと思ったが、太刀川の提案はこの部屋を二人で使うという意味だったようだ。そりゃそうだ、太刀川さんだもんな。彼らしい考えに出水は気が抜けてすこし笑った。
「どうする?」
総務に申し出たらもうひとつ部屋を探してくれたかもしれない。どちらかが隊室のソファやベッドで過ごすこともできたと思う。そういうのは、たぶん全部分かっていた。
「……前の遠征艇思い出すね、こっちのが全然広いですけど」
「二人部屋のやつな、あれ寝るとき狭かったよなあ」
嫌だと思わなかったから。今から隊室に戻るのは面倒だから。太刀川さんだし別にいいかと思ったから。
そんなあいまいで形のない小さな理由たちに誘われて、出水は沓摺りを踏み越えた。
出水が羽織っていたコーデュロイのシャツをサイドボードにひっかけるのを見届けて、太刀川はオレンジ色の常夜灯をひとつだけ残して電気を落とした。確認したら明日の任務の集合時間は出水の方が早かったので奥側を譲ろうとしたのだが「お前落ちそうだから」と言いながら太刀川は出水を壁際に押し込んだ。
先ほどまで太刀川が横になっていたらしく、もぐりこんだベッドには体温が残っている。冬特有の布地の冷たさに震えずに済んでありがたかった。
「部屋入れてもらってあれなんすけど、今日ほぼずっとトリオン体だったから眠くないんですよね」
「はは、俺もだ」
ひとつしかない枕を中途半端に分け合いながら、太刀川と出水はぽつりぽつりと会話を交わしあった。なんだか久しぶりに顔を見た気がする。出水より体力もキャリアもある太刀川に限ってそんなことはないだろうとは思うものの幾分くたびれて見えるのは無精ひげのせいだろうか。なんとなく左手を伸ばして彼の輪郭をなぞれば、生えかけのひげが指の腹にちくちくとひっかかった。
「お前指長いよな」
「そうすか?」
「うん、手より指のが長いだろ」
「……それバケモンじゃん」
たぶん手のひらの全長に対して指が占める比率が多いってことが言いたいんだろう。
出水は勝手に納得し、太刀川の肌を撫で続ける。大人しくされるがままの年上の男は、穏やかな大型犬のようだった。指先が勝手に彼のゆるく癖づいた髪も梳きはじめる。
「太刀川さん最近なにしてたの」
「ずっと斬ってた。出水は?」
「おれも。ずっと撃ってました」
互いに呼気で笑い合う。太刀川といるときのこういう瞬間がすごく好きだ。なんでもないことなのに、楽しくて心地よい。
次第に太刀川に触れていた指先が冷たくなってくる。出水は撫でるのをやめると布団のなかに手を引っ込めた。
「多分今日お前が撃ってんの見たよ、早沼の方でやってたろ」
「えーいつですか、朝とか?」
「分からん」
目をつむった太刀川はそう言って右の口の端をほんの少しだけ持ち上げると、布団のなかで縮こまっていた出水の拳を包むようにつかんだ。生身で長年剣を握ってきた彼の手のひらは皮が厚くてみっしりしている。
「でもばらばらに動く花火みたいだったから、絶対お前のバイパー」
熱を分けようとする献身的な手の動きに合わせて、出水は握っていた拳をひらく。指と指が大雑把に絡んで、そこでふと出水はかつて太刀川が一瞬だけ指輪をしていたことを思い出した。恋人にねだられて買ったと言っていたのはこの時期だったような気がする。
「そういえば来週ってクリスマスらしいっすよ」
「そんな時期か、早ぇな」
「……太刀川さんてもう彼女とかつくんないの?」
指輪の女性だけではなく、太刀川は何度か誰かの彼氏だったことがある。それこそ彼が高校生の頃は同い年くらいの女子と並んで歩いている姿も見たことがあったし、休みの日に街で偶然会ったときには太刀川本人から直接紹介されたこともあった。けれどここ一年くらいはそういった話を聞いていない気がする。
「今はいらないな」
「ふうん」
「なに、出水は欲しいのか」
「まあ人並に……なんかアドバイスとかあります?」
「そうだなあ、爪は切っとけ」
「つめ?」
太刀川は温めていた出水の手を握りなおすと人差し指の爪の先を確かめるようにたどり、そのまま出水の唇に指が当たるように押し当ててみせる。太刀川はなにも言わないけれどなにを望まれているのかは分かったので、出水は口元に添えられた自分の指先をそっと咥えてみた。
その行動は正解だったらしく指先は太刀川に操られてゆっくりと動きだす。唇の裏側をたどり、歯茎をすべったかと思えば、歯のエナメルに爪先が当たり、かちんと小さな音が鳴った。指は構わずそのまま舌の先、頬の内側、上あごを撫でていく。尖った爪の先が柔らかな部位にあたると反射的に身体が強張り、そこでようやく太刀川の「アドバイス」の真意が分かった。
粘膜に触れるときは爪を切っておいた方がいいと、そういうことか。
「ん……っ」
気づくと太刀川の手はいつのまにか離れていた。これじゃ出水が勝手に指吸いをしているようだ。赤ん坊じゃあるまいし、そう急に恥ずかしくなって咥えていた指を引き抜くが、しかし今度は太刀川の小指が濡れた唇の隙間を割りひらいてきた。
「ふ、っ」
「いれて?」
素直に迎え入れてやれば同じように頬の内側のふわふわしたところを撫でられる。さっきより幾分早く、迷いのない動きをするにも関わらず、舌のうえや口蓋をこすられたり軽く叩かれても不思議と怖くはなかった。
なんとなくさっきチョコレートを食べたことを思い出し、腰の奥がすこし重くなる。
「な、短い方がいいだろ」
最後に下唇をふるっと弾き、太刀川の指が離れていく。
出水の唾液で濡れたそれをどうするのかと見ていれば太刀川は迷いなくベッドシーツの端でこすった。この人ほんとだらしねえな、と思いながら出水も真似て人差し指をこする。いやまあどうせシーツは出るとき洗濯に出すし。ていうか。
「これ彼女できたあとのアドバイスじゃん」
「……ん?」
「え? ……あ、あ~~、なるほど、太刀川さんそういう感じなんだ?」
きょとんとした太刀川の表情に一瞬理解が遅れたものの、出水はわざとらしく声を作って目を細めた。つまり太刀川のなかで「こういった行為」と「お付き合い」には決まった順序がないと、そういうわけか。そりゃまあおれだって据え膳食っとけ的なのは分かるけど。この世の全員が告白して付き合ってからエロいことするとは思ってねえけども。垣間見てしまった太刀川のスタンスに納得しつつ、どうしても濁った視線を返してしまう。
「ははは」
太刀川がごまかすように笑い、ゆっくり出水の身体を引き寄せた。抱えられた腕のなか触れ合う身体の面積が増えてあたたかい人肌がシンプルに心地よい。この人は黙っている時のほうが雄弁だったりする。太刀川の手が出水の頬から首筋をすべり、耳たぶを遊んで背中や腰を繰り返し撫でていった。
「もしかして太刀川さんって、おれのことも抱けるんですか」
「んー……まあそりゃあな」
「え、マジ?」
「だって出水だろ? できるかどうかで言ったらできるだろ」
「へえ」
「……お前は?」
お前は、俺に抱かれてみたい?
額同士を触れあわせたままの至近距離で静かに問われる。出水の言葉を待つ太刀川の瞳は薄く濡れており、その奥には小さな炎が揺れていた。思わず出水の息が止まる。
やりたいの、そっちじゃん。
太刀川の瞳はほんの少しでも揺らしたら零れてしまいそうな欲をたたえていて、それは不思議なほどに出水を興奮させた。目の前の男が健気に「待て」をしていることへの愛しさと、その躾をしているのが自分だという事実が出水を芯から熱らせていく。
「おれ、は」
太ももの裏に汗をかきながら、この人はこうやって相手を誘うのか、と朧げに理解した。うそぶいてばかりのこの男にこんなふうにストレートに望まれたら大体の人間は悪い気がしないはずだ。
太刀川は静かに出水の返事を黙っている。
ああくそ、抱かせてくださいって言わせてみたい。
もっとなりふり構わず求めるところが見てみたい。
「やってみたいっつーか、見てみたいっつーか、興味あるっつーか……」
あまりに生々しい欲望は胸のなかに秘めたまま、出水は太刀川の身体に腕をまわし抱きしめ返した。
「……それ俺が誰かとヤってるの見たいってこと? お前十八にしてなかなかすごい性癖してんな」
「違えし、そういう意味じゃなくて、太刀川さんエロいことするときどういう感じなのかなって、好奇心的なやつです」
「ふうん」
口に出して補足してはみたものの、これはこれで悪趣味な気もする。けれどそれを出水が撤回するより早く、太刀川が口をひらいて提案した。
「じゃあ途中までやってみるか」
「……途中?」
「そう、サンプルチラ見せ?」
「うはは、エロ動画みてえ」
「良心的だろ」
「あー、でもまあ、うん、途中までなら」
いいですよ、そう動いた出水の唇を見届けると太刀川の目が静かに見開かれた。ぞくんと興奮が背筋を走っていく。太刀川のこういう表情を見るのが出水は好きだった。
太刀川さんのなかにいるおれを、現実のおれが超えるのは気持ちいい。
「いいんだ」
「まあ途中までだし」
「……キスもしていいの」
「はは、どーぞ?」
了承を告げると早速唇が触れてきた。うける。おれマジで太刀川さんとキスしてる。いやこれ米屋や佐鳥に教えてやったらどんな顔すんだろ。そんなバカな感想を浮かべつつも頭の片隅では「本当によかったのか」と警鐘を鳴らす自分もいる。
それでも出水はそのまま目をつむった。
減るもんじゃないし。大学生になる前にベロチューくらいしときたいし。興味があるのは本当だし。途中までだし。それに、太刀川さんだし。
すぐに舌を入れられるのを覚悟していたのだけれど、太刀川は触れるだけのそれを繰り返すと出水の身体をベッドの真ん中に引き寄せてからゆっくりと組み敷いた。
「……キスからするんすね」
「紳士的だろ」
「はは、んっ、ん……っ」
思わず声をあげて笑えば、今度は当たり前のように舌が入ってきた。遠慮なく勝手に動きまわる太刀川のそれを出水も自分の舌で追いかけてみるものの、動き方の予想がつかなくて捕えられない。
「ふ、ぅ、…っ、んん、ん…んんっ」
真上から覆い被さられながらも体重はほとんどかけられていなかった。体温が伝わってくるだけの密着は心地よいだけで、手慣れているなと感心していたら次第に口の中でなにが起きてるのか分からなくなってくる。今更だが組み敷かれると身体の逃げ場がなく首を動かすくらいしかできない。一度仕切り直したくて、顔を振り太刀川の唇から逃げようと試みてみるものの、いつのまにか頬に添えられた手のひらがそれを許してくれなかった。
太刀川は「ちゃんと」食らおうとしている。その事実がまた出水を昂らせた。
「んっ、んんっ、……ふ、はっ……、!」
「―――はい、サンプルおしまい」
唾液が口端をつたいかけた寸前、するりと舌と熱が離れていく。太刀川が上半身を起こしたのに合わせて、ずれていた掛け布団がついにベッドから落ちていった。
「べろ出てるぞ」
太刀川がべえと自分の舌先を見せてくる。出水が反射的に口を閉じると太刀川は笑いながら布団を引き寄せ、元の位置に横になった。
「……はあ? え、なに、終わり?」
「終わり。これ以降は本編でお楽しみください」
どこかで聞いたことのあるような文言を引用した太刀川は、子どもを寝かしつけるように布団の上から出水の身体をぽんぽんと叩いた。そのあまりに早い切り替えに、今度はこちらがお預けを食らったような心地になる。
抱けるかって話だったのに、ベロチューだけってなんだそれ。
「……ねえ太刀川さん」
「んー?」
目をつむり、さっさと寝る態勢をとった太刀川に向かって出水は話しかける。
「おれが最後までしていいって言ったら、する?」
そう言えば、驚くと思った。閉じた瞳が開かれて、瞠目すると思った。その瞳の奥に、あの炎が揺れているのを見て、ほらやっぱり、と思いたかった。
「……しない」
「え?」
「できるけど、したくない」
けれど太刀川は瞼をとじたまま静かにそう答えた。驚いた様子もまるでない。なんで。思わず強い口調で問い質しそうになって、出水はぐっと言葉を飲み込んだ。けれど頭の中は疑問と不満でいっぱいだった。さっき、あんなにはっきりおれを欲しがったくせに!
「……しないんだ」
「うん」
「なに、やっぱ男は無理?」
「そういうわけじゃないけど、今のお前とはしない」
「はあ? 意味わかんねえ、太刀川さん付き合ってなくてもヤッてたんでしょ」
太刀川の態度に苛立ち、予想の数倍拗ねた声音になった。なだめるようにまた布団のうえから軽く叩かれて余計に怒りが募っていく。
頬でもつねってやろうと手を伸ばした、瞬間。
「前はな。今は最後までやるんなら、ほんとに俺のこと好きなやつとしたい」
伸ばしかけていた手は空を切ってシーツに落ちる。昂っていた感情が一気に冷えて喉の奥がひゅうっと鳴った。頭から氷水を浴びせられたようだった。
これは拒絶だ。出水に心を触らせるつもりがないと、そういうことだ。
「もう寝ようぜ、おまえ明日早いんだろ。何時から?」
「……ろくじ」
「うわ早、おやすみ」
結局太刀川は目をつむったままだった。出水は太刀川に背を向けると、できるだけ壁際に寄ってからぎゅっと目を閉じる。掛け布団が浮いて隙間ができたせいで背中が寒いけどゆるく兆しはじめていた性器にだけは気づかれたくない。胃の中に泥を詰め込まれたみたいに息苦しかった。
「出水、あんま布団ひっぱんな」
「寒ぃんすもん」
言い終わるより早く後ろから抱きこまれて、冷えた心が懲りずにまた揺れる。ずるい。背中ごしの身体があまりに温かくて出水は歯を食いしばった。ずるい、ずるい、ずるい。最初に抱けるって言ったのそっちのくせにふざけんな。こんなのまるで一口齧って捨てられた果物だ。歯を立てたなら最後まで食え。
身体のなかではたしかに冷たい怒りが渦巻いているのに太刀川の身体が温かい海みたいなせいで沈んで溺れてしまいそうだった。出水は縋るように強く目をつむる。
一刻も早く、意識も思考も感情も全部手放してしまいたかった。
翌朝、出水はデバイスのアラーム音で目を覚ました。太刀川の身体をまたいでベッドから抜け出すと、シャツのポケットに入れていたそれを探り、アラームを止める。
かすかな寝息が聞こえるだけの薄暗い室内をぼんやりと見渡しながらシャツを羽織り、手ぐしで髪をざっと梳く。同じくサイドボードの上に置いておいたトリガーを掴んでトリオン体に換装すると、そのまま部屋を後にした。
廊下に出ると真っ白な蛍光灯のひかりに照らされて一瞬視界が白く眩む。光から逃げるようにうつむけば自分の両手が目に入り、気づけば出水は無意識につぶやいていた。
「モールモッド百匹来い」
その全部を火力に任せて撃ち殺してやる。そんな気分だった。
「―――朝から物騒だなオイ」
「うわびびった、……当真さんか」
声がした方を振り返れば、隊服姿の当真が立っていた。偶然通りがかったようだが出水の不謹慎な独り言はばっちり聞かれてしまったらしい。
「ぶっ放したいときがあんの」
「美学の違いだな」
まるで分からないと笑って肩をすくめられたので、出水も似たような仕草を返してみせる。昔から何度も繰り返したやりとりだった。
「そういやお前仮眠室使えたのか、運いいな。システム一瞬バグってたんだよ」
「へえそうなんすか、気づかなかったな」
じゃあおつかれさまです。なめらかに嘘を吐いて、出水は集合場所のロビーに向かって歩き出した。
(つづく)