THE LAST HONEY DOLPHIN

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1st Period

最初に競技バスケから離れることを決めたのは、赤司と黒子だった。高校卒業後、黄瀬と同じくそれぞれ進学した大学のチームでバスケットボールをしていた彼らは、四年生の五月に愛してやまないバスケとの距離を変えることにしたと黄瀬に直接話してくれた。
十五歳の頃だったら、信じられなくて彼らを問い詰めたかもしれない。十八歳の頃だったら、その理由を尋ねてしまったかもしれない。
「そっ、スか……」
けれど二十一歳の黄瀬ができたのは、そんな呼吸のような相槌を落とすことだけだった。
もちろん、ある程度の予想はしていたのだ。大学四年生。普通に生活していたら、いやでも就職活動や進路の話は耳に入ってくるし、各地区の選手権が終わって試験期間に入る直前のこの絶妙なタイミングで、よりにもよって黒子の方から誘われたのだ。ここまでヒントを与えられて、分からない方が嘘だなと思うけど。
まだストローも刺せていないコーヒーフラペチーノを眺めながら、黄瀬はふいに一番上の姉が紹介したい人がいると父親に伝えていた場面を思い出した。あの時の父親は、もしかしたらこんな気持ちだったのだろうか。そしてそうだとしたらこの二人も、俺に心の準備をさせる為にこんなかたちをとったのかもしれない。
したたかで誠実な、この二人のことだから。
「……黄瀬」
「……黄瀬くん」
何も言わずに黙っていたら同時に名前を呼ばれてしまった。許しながら叱るような口調が二人ともまったく同じで久方ぶりに懐かしいようなくすぐったいような気持ちが生まれてしまう。
「まだ何も言ってないじゃないっスか」
「きみの表情は情報量が多いんです」
「あーそうやってまた俺のせいにするー」
黒子と黄瀬の変わらないやりとりに、赤司が静かに笑いながらコーヒーのマグカップに指をかけた。それに倣うようにして、黄瀬もようやくストローのビニールを破く。緑のそれをカップに刺しながら、黄瀬はまず隣に座っている黒子の様子を伺った。そこにあるのは相変わらずの無表情。ずるいくらいのポーカーフェイス。けれど今日はそこに、ほのかに何かがある。薄く薄く、ほんのりと滲む程度の、何かが。

(中略)

2nd Period

他の乗客と同じように、大きな楕円のレーンの前で自分の荷物が出てくるのを待っていたら隣に五歳くらいの女の子がやってきた。まさか一人ではないだろうと思いながらも自然と気になり視界に入れていたら、なんとその子は自分の二倍以上ありそうな体積のスーツケースに手を伸ばそうとしはじめて、黄瀬は慌ててそれを制した。
「待って、危ないよ」
とっさに日本語で呼びかけると、女の子は二つに括った髪を翻し、ぽかんと黄瀬を見上げてくる。ひとまず動きを止められたことにとりあえず息を吐き、距離を保ったまま、黄瀬は一端しゃがんで彼女と視線を合わせた。
「……hello?」
するとすこしの間を置いて、女の子も小さな声ではろう、と返してくれた。そのままの体勢で保護者の姿を探して周りを見渡すと、トイレから出てきた一人の男性と目が合う。ブルネットの髪色が彼女と同じことに気づくと、その人も黄瀬の側に居る彼女に気づいたようで、早足にこちらへ向かってきた。ダディ。彼女が小さくそう呟いたのを聞いて、黄瀬は今度こそ完全に安心した。
「さっきのスーツケース重そうだから、お父さんと一緒にとるといいよ」
日本語じゃ伝わっていないと思いつつ、一応そう伝えてみる。すると黄瀬の目をじっと見ていた彼女の視線がするりと下の方に落ちていった。
「…………」
「……ああ、これ?」
彼女が何を注視しているのかはすぐに分かった。黄瀬は肩にかけるように着ていたコートをひらりと揺らし、「それ」がもう少し見えるようにしてやった。
「怪我しちゃったんスよ」
ギプスで固定され、仰々しいサポーターで吊り下げられた右腕。それを反対の手で擦りながら呟くと、辛うじて見えている人差し指、中指、薬指の先を戯けたように動かしてみせる。
ぽん。彼女の背中に先ほどの男性が優しく触れる。女の子がすぐにその人の足に抱き着いたのを見て、黄瀬は微笑みながら立ち上がった。男性と目線が合う。背丈は黄瀬と同じくらいで、歳は少し上、三十台半ばくらいだろうか。穏やかそうなその人は、黄瀬にゆったりした声で礼を述べた。黄瀬も英語でどういたしまして、と返した。
それからまた数分ほど待っていたら、ようやく自分の荷物がレーンを流れてきた。成人したときに姉二人が買ってくれたトミーヒルフィガーのスーツケースはボディの丁度ど真ん中に太いラインが入っているので見つけやすい。近づいて念のためタグの名前も確認してから、いざそれに手を伸ばそうとしたら、黄瀬より早く先の男性がそれを持ち上げ取ってくれた。彼も腕の怪我に気づいていたらしい。礼を述べ、荷物を受け取ってそして黄瀬は出国ゲートを目指した。

「持ってる……」
到着ロビーでコードレスタイプの掃除機を携えた緑間の姿を五秒で見つけた黄瀬は思わず一人で呟いてしまった。
「ええ……やばい……相変わらずすぎる……」
青峰が渡米したのと同じ年に留学した緑間は、そこからずっとヨーロッパを拠点にしてバスケをしている。その為、彼とこうして直接会うのはとても久しぶりだった。だから、ほんの少しだけ構えていたのだけれども、まるで変わらないその姿に、なんだか拍子抜けしてしまった。


(中略)

3rd Period

「黄瀬ちん、俺ね、次で最後にする」
 それは穏やかな秋の昼下がり、通い慣れたスポーツジムでのこと。ずらりと並んだランニングマシンの一つに彼の姿を見つけ、その隣の一台のスイッチを入れた瞬間に言われた一言だった。
「…………マジ?」
 ういいんと静かな音を鳴らしながら黄瀬の足下のベルトがゆっくりと動き出す。慌ててセーフティキーを胸元に着けながら、黄瀬は低い声で問いかけた。マシン一台ずつに付いているモニターあたりに視線を固定していた紫原は、そのときようやく横目で黄瀬を見て、頷いた。
「この夏で終わり。決めた」
 ついに。寂しい。いよいよ。もっと。でも。
紫原の下した大きな決断に、黄瀬の胸の中をいろいろな気持ちが渦まいて混ざり合っていく。
「……おつかれ、はまだ早いか」
しかしそうやって心が波立つ一方、頭の方はどこか冷静だった。黄瀬も紫原も今年でちょうど四十歳を迎える。国内の現役選手の中でも大分年長の部類に入りチームメイトも対戦相手も年下の選手の方が多くなった。近年で大分革新が進んだとはいえ、まだまだ整っているとは言い難いこの環境で、ここまでお互いよく第一線で続けてきたなと素直に感慨深くなる。
「もう言ったの? コーチとか運営とか」
「ううん、まだ。契約のこととかもあるからもうちょっと経ったら言う。だからそれまで内緒ね」
「了解っス、他に誰が知ってんスか?」
「え?」
「ん?」
 黄瀬も紫原もお互いを見つめたまま首を捻る。二台のマシンの駆動音だけが波のように鳴り続ける中、先に沈黙を破ったのは黄瀬だった。
「……もしかして、この話聞いたのって俺が一番だったりすんの?」
「そりゃあそうでしょ」
 どうしてそんなことを確認するのかと言いたげな表情であっさり肯定され、黄瀬は面食らった。

(中略)

Last Period

黄瀬ってまだバスケやってんだ。
中学の廊下ですれ違いざまそう言われた時、その声には薄く毒が塗られていたのを覚えている。目立たぬように、けれど、触れた黄瀬をきちんと害せるように。その音にはそういう意図が隅々まで満ちた響きをしていた。
一年生の頃から、モデル仕事の合間に複数の部活に仮入部し、そして結局そのどこにも入部しなかった黄瀬に対し当たりの強い人間は多く、何かひとつのことをとても大切にしている人間であるほどに、その悪意は濃いように感じることが多かった。
だからすこし、諦めた気持ちもあったのだ。事実自分は夢中になれるならバスケットボールじゃなくても良かったのだから。
代わりのない、たったひとつ。
あの頃自分はそういうものとは縁遠いのだと思っていた。