真白い地図にキスマーク

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1.わたしの男


火神大我は、私の男だ。

けれど、正直に言おう。彼とはじめて出会った高校二年生の頃から、ほんの四ヶ月前までのおよそ丸四年間のあいだ、私にとって火神大我は全然まったくこれっぽっちも性別を意識するような存在ではなかった。火神大我は手のかかる後輩であり、至高のバスケットボールプレイヤーであり、はじめて私が監督という立場で関わった、誠凛高校バスケットボール部という、かけがえのないチームのエースであって、それ以外の要素が入り込む余地なんて、あの頃小指の甘皮ほどもなかったのだ。そりゃあ体格は良いし、中性的なタイプというわけでもないから形容詞として男っぽいと感じることは腐るほどあったけど、そんなレベルじゃ太刀打ちできないほど彼は圧倒的に最高の仲間だった。
そのうえ彼は高校二年の初冬、渡米というかたちで上級生である私よりも先に誠凛そのものを離れて行ったので、尚更情報をアップデートする機会を失った。それどころか、彼がいなくなってからはその現実をコートの内外で痛感させられたので、選手火神大我の存在感を、より強く意識することとなった。
頂点を共に目指し、掴んだときの震えるような歓び。
その後の、忘れられない火傷のような痛み。
思い出すたび、それらを等しく与えてくる彼は、二一歳の相田リコのなかで、正しく過去だった―――少なくとも顔を合せなかった四年間は。

それなのに、今、なんの因果か、火神大我は私の彼氏だ。

リコはスマートフォンに送られてきた画像をタップしながら逆の手で持ったソイラテのストローをゆるく噛む。画像は写真で、送り主は彼氏の友達だ。

―――よしよし、ボディバランス悪くなさそう。

彼氏の水着の写真を見て、まず筋肉に目が行ってしまうのはもう職業病のようなものだ。誰にか分からない言い訳を胸の内でして、改めて彼の表情を見る。笑ってはいるものの海水でも入ったのか左目をすぼめるように細めているせいで平素より数段柄が悪そうだった。白地に鮮やかなオレンジのラインが走ったサーフボードを抱えているけれど、まさか自分のボードを空輸したはずはないだろうから、たぶん現地でレンタルしたのだろう。そのまま送られてきた写真をスクロールしていけば、同じ柄のボードを持った黄瀬の姿も現れる。最後に会った、というか直接姿を見たのは彼が三年生のときのインターハイだっただろうか。屈託のない笑顔が新鮮だった。
まもなく午後二時になる。国内線の待合いエリアは出張に向かうサラリーマンとリコと同じような歳の旅行客の姿が多かった。夏休みとシルバーウィークのあいだの九月の平日に旅行を計画するのは、やはり同じ大学生だろうな、そう思いながら、ボストンバックからハンカチを取り出し、結露で濡れたプラス
チックカップの表面を拭う。布地のレモンイエローがまだらに濃くなった。
「リーコーさんっ」
ふに。振り返ったリコの頬に、桃井の指先が柔らかく沈む。沈ませた張本人は愛らしく微笑んでいた。


(中略)

2.君は友達


海からあがり、火神と黄瀬は波にくるぶしを撫でられながら、濡れた砂に足跡をつけていく。カラフルなパラソルやレジャーシートがいくつも並んでいる砂浜を眺めながら自分たちのそれを探した。

「どれだ?」
「あそこ。火神っちのTシャツかけといた」

黄瀬は海岸にいくつも刺してあるパラソルのうち、傘の骨に白いシャツがかかっているひとつを指さした。

「あ? どこだ?」
「あれだって、ほら女の子四人組とカップルのあいだっスよ」
「あー……分かった」
「……そういや俺らド定番のやつやってなかったね」
「……そうだな」

仕方ない。四人組が目に入ってしまったから仕方ない。海だもの。男だもの。夏だもの。九月だけど。
一応付け加えておくと、自分たちがあの拠点を構えたときに彼女たちはいなかった。だから本当にこれは偶然なのだ。
誰に対してか分からない言い訳を浮かべつつ、直視しないこと、に集中しながら件のパラソルのあたりを俯瞰で把握する。黒子っちはもちろん、何とかアイを持っている人たちはこういうこともうまくできるのだろうか。いろんな方面から怒られそうだな、と思って口には出さないようにした。

「火神っち、あの黒髪の子好きそう、パレオ巻いてる子」

モノトーンの水着を着た上品そうな女の子を指してそう言えば、ややあって嫌いじゃない、という低い声が返ってきた。

「好きって言えばぁ?」
「うるせえよ……お前は?」
「俺はねー……んー、オレンジのストライプかなぁ。白シャツ羽織ってる子」
「あ~~~~」
「納得しすぎじゃね? ……俺先にボード先返してこよっか」
「いやいいだろ、一回で全部まとめてこうぜ」

パラソルまで半径五メートルというところを境に黄瀬が話題を変えれば、火神もしれっと後に続く。隣の四人のうち二人がこちらを気にしたのが雰囲気で分かったけれど、そのまま素知らぬ顔をして火神のTシャツと一緒にパラソルの骨にひっかけておいたタオルでざっと顔と髪く。そしてそのまま荷物をまとめ、黄瀬と火神は砂浜を後にした。
ショップにボードを返し、シャワーを浴びてから車に戻る。うすい黄緑色のクロップドパンツのポケットからレンタカーのキーを取り出し、ロックを開けた。

「ぅあっちぃ!」
「さすがにやっばいねぇ」

運転席に乗り込んだ黄瀬はすぐにエンジンをかけると密室で蒸された車内の空気を入れ替えようとクーラーをつけて窓を全開にする。黒いシャツの襟もとをはためかせながら、買ったばかりの冷えた爽健美茶を早速ごくごく飲んだ。

「連絡きてる?」
「おう、予定通りだって」

スマートフォンをいじりながら助手席に乗り込んだ火神に爽健美茶をパスしてやりながら、黄瀬はカーナビに待ち合わせの駅名を打ち込む。三つ表示されたルートのうち、最初のそれを選んで設定し、到着時間を確認した。

「五時前くらいだからちょうどいいっスね。はーい、シートベルトしてくださーい」
「うぃーす」

火神の素直な返事に満足げに頷くと、黄瀬は丁寧にアクセルを踏んだ。
紺色のタントカスタムはゆっくりと駐車場を抜けると、そのまま海岸沿いのドライブコースを走っていく。スピーカーに繋いだ黄瀬のiPodからはファレル・ウィリアムスのハッピー
が流れている。ハンドルを握る指先でリズムをとりながら笠松から勧められてダウンロードしたのはいつだっけ、と考えた。教えてもらったとき、この人ハッピーという音が似合わないなと思ったのは覚えているんだけど。
曲が変わる。今度は邦楽アーティストの恋の歌だ。

「……火神っちってさ、何でカントクさんと付き合ったの?」
「あ? 何でって?」
「いやほら、お淑やかな子が好きって聞いてたから、ていうか今も好きなんでしょ」

先ほどのモノトーンちゃん、それと昔黒子から聞いた話を思い出しながら黄瀬はブレーキを踏んだ。走りはじめてから最初の赤信号だった。

「まあ、なぁ」
「カントクさんストライクじゃなくない? 俺ちゃんと絡んだことないからあんま分かんないスけど」

火神は黙ったまま、黄瀬の質問に答えない。ドアを開けたときに比べたら大分空気が冷えた涼しい車内に歌手の声だけがたゆたう。世間話のつもりだったけれど、答えにくいことを聞いてしまったのだろうか。言いたくないのなら別にいいよと言おうしたら、ドロップキック、と唐突に火神が呟いた。

「ドロップキック?」

脈絡のない単語と、彼らしからぬ寝ぼけたような物言いが珍しくて黄瀬は思わず聞き返す。

「高一の時にされたことあったわ」
「……それはなかなかワイルドな方っスね」

そのエピソードを聞いてまず湧き上がったのはシンパシーだ。高校時代、自分自身が散々ぼかすかやられて育てられたので、鮮やかに当時の記憶が蘇る。ドロップキックはもちろん、ハイキックもローキックもラリアットも関節系の締め技も……って違う違う、今はそうじゃない。
どれだけ頑張ってみてもドロップキックとお淑やかは簡単には繋がらない。ならばどうしてという疑問が単純に強くなる。

「……どうしてだろうな、なんか、正直、俺あんまちゃんと考えてなかったんだ」

そうぽつぽつと喋る火神の声は先ほどと同じように、どこか曖昧でふわりとしている。照れているのとは違うし、言いたくなくて誤魔化しているようでもない。火神本人すらどう扱っていいのか分かっていなそうなその様子に、黄瀬の勘が囁いた。
もしかして火神は、答えを持っていないのではないか、と。

「……会うの、いつぶりなんだっけ」
「前会ったのが五月だから、四ヶ月くれーかな」
「そっか、じゃあ……楽しみっスね」

火神が頷く。それに少し安心した。
すべての恋人たちみんなが相手を死ぬほど好きではじまった関係ばかりではないだろうし、予期せぬはずみをきっかけに動き出すことだって、きっとある。少しでも会いたいと思う気持
ちが本当なら、それは非難されることではないだろう。自分はそう思っている。
信号が変わる。黄瀬はまたアクセルを踏んだ。

3.私の友達


鏡像の自分はまるで知らない他人のようだった。彼女がどこを見ているのか、何を考えているのかちっとも分からず、迷子のような気持ちになりながら桃井は鏡からそっと目を反らす。そのまま蛇口の下へ両手を差し出せば、ざあああああっと勢いよく溢れ出した水に火照っていた両手が冷まされていく。その当たり前の冷たさが、今は何より心地よかった。

黒子っちのことが、好きだから?

海を泳ぐ魚のように、先刻の黄瀬の声が頭の中をめぐった。十代の頃から折に触れて、黄瀬は冷たい水のように桃井の指先を甘く冷やす。
ああいうときのきーちゃんは、すごく綺麗だ。
ペーパータオルで水を拭い、桃井はもう一度鏡に向き直る。

テツ君のことが好きだから、だよ。

自分の答えが、黄瀬の声を追いかけて、追い越して、そして全部をそれで染めあげていく。七年の片想いは、それくらい圧倒的に絶対的だ。良い意味でも悪い意味でも。
この恋は、これまで一度も終わる気配がなかったわけではない。高校時代、私を好きになってくれた人とお付き合いをしてみても良いんじゃないかな、と思ったこともあったし、他の誰かの存在とはまったく関係なく、ただ天気が良い日に、ふと、もう終わりにした方が良いのかもしれないと思ったこともある。
けれどちょっと本気で諦める想像をしただけでどうしようもなく苦しかった。結局私は黒子テツヤが大好きで、大好きで、大好きのままだった。

片想いの主導権は惚れている側にあるものだから、私が終わりにしたら、それでこの恋は終わってしまう。七年間の片思いの一人きりの完結。それは拍子抜けするくらいに気楽で、死にそうなほど寂しい。
一人じゃなくて、二人で恋をするというのは、一体どういう感覚なのだろう。

―――幸せなキスがしてみたい。

小指でリップクリームを塗り直しながら桃井はぼんやりそう思った。


パウダールームを出てフロアに戻る細い通路を歩いているとヒールのないサンダルなのに、足下が少ししふらついた。そんなに強いものもたくさんも飲んではいないのに、身体が疲れていてアルコールのまわりが早いのだろうか。もう今日はソフトドリンクにしておこう。向かいから歩いてきた男性にぶつからないよう端に除けながらそう思った。

「……あれ?」

滑り落ちてきたサイドの髪を耳にかけようとして、はたと気づく。まとめていた髪が、ほどけてしまっている。触れた指はするりと毛先の方まで髪を梳いてしまった。留めるのに使って
いたヘアクリップを落としてしまったようだ。立ち止まって今来た通路を振り返れば、アルコールが頭のなかを泳いでくらりとした。

「―――これ、もしかして落としましたか?」

控えめな声に顔をあげると、先ほどすれ違った男性が男子トイレの前に立っていた。淡い水色のTシャツを着ている彼は、おそらく同い年くらいで、片手にヘアクリップを持っている。ピンクパールが光るそれは、間違いなく自分のものだった。

「あ、そうです」

通路を戻りながら、知らない男性と酔っている自分というシチュエーションにほんのすこし警戒心が芽生える。けれどそれが「ほんのすこし」だったのは、彼の口調と声がちょっとだけ、本当にちょっとだけ、似ていたから、かもしれない。

「ありがとうございます」

もう一度トイレに戻って、まとめ直そう。そう考えながら、礼を言って桃井は差し出されたヘアクリップへ手を伸ばした。

「え?」

けれど、それを受け取ることは叶わなかった。桃井の伸ばした右手よりももっと高いところへ、男の左手がすいっと逃げる。

「すこし酔っているようですね、大丈夫ですか」

状況が呑み込めず瞬くことしかできなかった桃井に対して、男性はただただ穏やかにそう述べた。ヘアクリップを持った左手を桃井の頭の先まで持ち上げたまま、その腕越しに柔和な笑みを浮かべている。嫌だ。桃井は本能的にそう感じた。

「……大丈夫です」
「ここのお酒って美味しいんですけど結構濃いんです、あまり無理はしない方が良いですよ」
「それを返してください」

桃井は努めて静かに、努めて冷たく聞こえるようにそう言った。本当は色んな感情が合わさって今自分が苛立っているのか、悲しんでいるのか、怖がっているのか、よく分からなかった。
男は先ほどと同じ穏やかな表情のまま、ゆっくりと口の端を持ち上げた。その余裕のある様子が煩わしくて鬱陶しくて、どうしてだろう、嘘みたいに泣きたくなってしまう。


(中略)

4.俺の彼女


火神大我にとって相田リコは、大好きな人たちのうちの大好きな一人だ。誠凛で過ごした宝物みたいな時間のことは、今も鮮明に思い出せる。自分は本当にみんなのことが好きで、好きで、大好きで、みんなのために何かがしたくて、みんなのために強くありたかった。大好きな人たちの泣いている顔なんて見たくなくて、笑っていてほしいと、心から思っていた。

だからこのはじまりも、たぶんそれと同じなのだ。

火神が帰国していた四か月前のゴールデンウィークに色々なタイミングの都合がついて誠凛のみんなで居酒屋に集まった。懐かしくてくすぐったくて楽しい時間のなか、火神は数年ぶりに再開した彼女、相田リコから、ほのかに涙の匂いがすることに気づいた。

「でも火神くんも元気そうでよかったわ、ケガもしてないみたいだし、安心した」

そんなふうに言って彼女はからりと笑っていたけれど、雨がけぶるような匂いは依然として彼女にまとい、火神は彼女から意識が離せなくなった。
ここがコートだったなら、今も彼女と同じチームだったなら、次の試合に勝つことや、もっと高く跳ぶことで、彼女の涙を止められたかもしれないけれど、今の二十歳の火神にそれをすることはできなかった。
じゃあ私これからバイトだから。そう言ってまだ明るいうちに店を出た彼女が忘れていったスマートフォン。それを届ける役目を申し出た火神に、日向と木吉がそのまま任せたのは、もしかしたら彼らも彼女が悲しいことを知っていて、けれど自分ではどうにもできないから、だったのかもしれない。これはもう、今となっては分からないけれど。
店の入っていたビルを出て、駅の方へ急ぎ足で進んでいく。行き交う人ごみのなかをひとりで歩く見慣れない私服をまとった小さなリコの背中を見つけた瞬間、なぜだか彼女が女であることを、強く意識した。なんと声をかければいいのか分からないまま追いついてしまった火神は、少し迷ってリコの細い手首を掴んだ。

「カントク」

驚いてびくりと肩を跳ねさせたリコが振り返った瞬間、水滴が一粒空へと散った。

「え、かがみ、くん?」

その水滴が涙だと分かったのと、胸の中の何かが爆発したのはおそらく同時で、そして次の瞬間、火神の口は勝手に言葉を紡いでいた。

「っ、付き合ってくれ、です!」

そのときの自分は、日本とアメリカの距離だとか、自分の気持ちだとか、彼女の状況だとか、現実的なことは一切頭から吹き飛んでいた。あまり賢くない自分の頭が考えていたのはただ
ひとつだけ。目の前の大好きな相田リコというひとの涙を止める方法だけ。それだけだった。

「……え、……えええっ!?」
「あ、や、ちがっ、いや、違くはねえ、じゃなくて、だから、えっと……っ」

―――俺何言ってんだ!?

彼女は大きな瞳を見開いて、何かを言おうと唇を開いたり、閉じたりを繰り返していて、可哀そうなくらい驚いているのが分かった。しかし、びっくりしているのは火神の方も同じで、気の利いたフォローなど何もできないまま、時間だけが過ぎていった。

「…………本気で、言ってる?」

先に言葉を発したのは、彼女の方だった。