途方も無い時間をかけて白い空に薄墨が滲んでいく。
そして、その上から本物の墨がじんわりと侵食して。
世界が潰れていくようなその様子に小さく笑った。
通い慣れた薄暗い廊下を藤代は歩き出す。悪く言えば古い、良く言えば伝統のある、この屋敷の一番奥を目指して。
「終わる」ことはもう明白だった。何年も、何十年も、何百年も、続いてきたこの宴は終焉を迎える。もうほんの、あと少しで。藤代にはもう予感のレベルを超えて、そのことが分かっていた。ほころびはもう随分前からあったけれども、今それがぱらぱらと、まるで雨でも降るかのようにほどけていく。
それを当事者でありながら、傍観しているのを心の中で笑った。
『異性と抱き合うと動物になる』
そんな冗談のような運命を背負い、十二支の物の怪憑きとして生まれてくる存在が「ここ」にはいた。腕を伸ばして愛しい人を抱きしめる。それができない、そんな人間が。
「こんにちは」
藤代はそのひとりだった。
「どうすんですか?十二支みんな集めて」
視線を手元の本に落としたまま、壁一枚に隔てられた彼に藤代は話し掛けた。
「宴会でもします?」
冗談めかして口を開いた。彼の状態を知りながらその声に労わる素振りが全くないことに改めて気づく。これもなのか、と藤代は思った。
自覚がないと言えば嘘だけど、それこそ物心のつく時からのものだから、やはり自分じゃよくわからない。わからないし、それを自覚したところで、残念だとも別段思わないけど。
けれど、お前は優しくない、笠井に言われたときは少し寂しかった気がする。子供の頃からの付き合いで、そして同じく呪われた物の怪憑きの親友。優しい彼の右目は視力を持たない。
「”終わり”にする」
空気が震えたのを感じたのと同時に、隣の部屋にいる三上の声が静かに聞こえてきた。
笠井の視力を奪ったのは、彼だった。
三上は「神様」。物の怪を統べる「支配者」。
その存在になるために生まれてきた。藤代たちが「物の怪」であるように、三上は「神」だと。
十二支にとって三上は理で、どうしてと問い掛けることになんて意味すらない。ただ血が、魂が、記憶が、彼を裏切るなと叫ぶのだ。
そんな他の十二支が痛んでいる「絆」ですら正直藤代にとって、特に意味はない。解けるか解けないか、それにだってあまり興味はない。だがその「呪い」に縋るしかなかった三上にとっては、世界が崩れていくのと同じなのだということは分かる。
だが、それも終わりに向かって動いていた。
この、襖の向こうにはそんな無防備で不安定な三上がいる。だけど己が差し出すものは、無論優しさではなくて。それを他人は歪みと呼ぶのだろうか。
「全部」
「へぇ……ま、先輩の気ィすんだなら何より」
水に溶けるように話す彼に、軽いトーンで応えた。
後ろに差し込まれる蛍光灯のひかり。手にしている本のタイトルが分からないくらいの手元の濃さ。
「お前も、せいせいしてんだろ……っ?」
その境界線に落ちる、彼の声が揺れる。
「お前も俺から解放されて、さっさと、いなくなれよ……っ」
危ない、と思ったときにはもう既に遅く。いっそ狂おしいくらいの凶暴な想いが、藤代を侵食し始めた。
持っていた本を静かに本棚へ戻した。紙袋を持って、彼の部屋へ入る。三上が窓から見ているのが外ではないことはすぐに分かった。
ここ数日で更に線が細くなった三上の身体。それが何かから耐えるようにして、そこにあった。
「俺もお前の、そのめちゃくちゃ勝手な言動から解放されんなら、せいせいするし……っ」
三上はそれでも、ぐらつく感情を精一杯言葉に託していく。その言葉は彼にとっての全てで、真実で、そして真っ赤な嘘だ。
「バカにされんの……も、たくさんだ……っ」
そしてその嘘を、何よりも愛してる自分がいることを藤代は既に承知済みだった。
音もなく、と言っても今の三上に聴覚を澄ます余裕は無かっただろうが、それでもつたうように彼の元へ歩いて行く。
「癇癪持ちなとこ、治んの難しいみたいっスね」
「! だからそれがっ」
真後ろで感想の独り言のように言ってみれば、三上の身体がこちらを向いた。予想外の距離に彼の身体が少しはねた。欲しい、と単純に思う。
「つか、”バカに”じゃなくて」
紙袋を窓の桟に立てかけて、更に彼との距離を埋める。逃げ場のない三上が半分怯えたように見上げてきた。
「”苛めて”んです」
そう口にした瞬間。浮かぶ表情に、たまらなく煽られて。
「そこんとこ間違えちゃダメじゃん、先輩」
「―――そっ」
「ああ、それと、コレあげます」
あまりにも勝手な物言いに反論しようとする口を、またしても軽く遮って。右手で紙袋に小さく触れると、特有の乾いた音が微かに鳴る。彼の視線がそちらに小さく向いたのを確認して、ほんの一瞬目を瞑った。
意味なんて無い。
「……何」
「プレゼントっスよ、お別れだから」
彼の血の音が止まる。一瞬凍りついた三上が、それでも何か訴えて見上げてきたのに満面の笑みで応えてやれば、世界が終わりそうな顔をされた。
「って!」
「嫌い…、大っ嫌いだ、お前なんて……っ!!」
置いていかれる、藤代がいなくなる。
その未来に耐え切れなくなって反射的に伸ばされた三上の手。その震えた指が藤代の頬を抉る。眉をひそめる藤代もお構いなしに、三上はそのまま掴みかかった。
「いたた、ちょ先輩いたいよ」
「そうだよなっ! お前がっ、1番、俺を……っ」
本当は口にするのが怖かった。だけど、ずっと、ずっと前から思っていたことを三上は半ば自暴自棄になって吐き出す。
どくんどくんと鳴るこの心臓は『お別れ』のカウントダウンなのか。そんなことを感じてしまうこともまた、怖かったけど。
「一番あっさり俺を、捨てると思ってた!」
泣いていないことが不思議なくらい、絶望的な三上の声。絶望的な三上の言葉。力いっぱい握り締めた両方の拳が藤代の胸で震えている。まだ、抱きしめたりはしない。
「嫌だ、も……嫌だっ!」
「誰が」
下を向いた三上のうなじがあらわになる。その白さに向かって呟けば彼の肩が震えた。
「捨てる、なんて言ったの」
「っ、お、お前がっ」
一呼吸置いてから、まだ動揺している三上の手首を優しく掴む。
「神様の三上先輩から『お別れ』して、新しい三上先輩になるんでしょ? だから記念にプレゼント」
おめでとう、と付け加える。彼の腕から力が抜けるのが分かった。
「これから、どうすんスか。何て言うの、アガナイ?」
「うるせ・・・っ黙れっ」
三上が落ち着いたところで手を離し、藤代はわざとらしく視線を遠くへ投げた。
『あがない』の意味。笠井の右目は帰ってこない、記憶は帰ってこない、瞬間の幸せはもう存在しない。三上が「絆」の「呪い」に縋って、今までしてきたことはどうしたって許されないということ。
そのことは三上自身よく分かっているようだったが辿り着くべきところはまだ分からないようだった。
だがそれも「変化」。
「俺のこと気にかけてくれて、光栄っス」
「違ッ!」
またやっちゃったな、と小さく感想を抱いた藤代から、三上が視線を逸らす。
そのままうなだれるように下を向くと、そして三上は諦めたようにゆっくり言葉を紡ぎ出した。
「…………違う、そうだ、俺は、藤代」
ひんやりとした風が、窓から入り込んだ。それが大分長くなった彼の前髪を揺らす。
「お前が一番、いつだって怖かった……ッ」
持っている全ての力を搾り出して、三上はそれを口にする。
「お前が一番遠くにいる気がして、一番束縛できなくて、一番俺を恐れてなくて……っ!!」
言いたくない、認めたくない、と三上の全身が叫んでいる。
「絆なんてあってもなくても、藤代、お前が一番、俺を突き放してたろっ!」
だけど、それは事実だった。その事実が三上は何より、怖かった。
「余裕かましてね」
表面上の優しさもなくなった声がずん、と空気を震えさせる。
藤代の世界には今、他人はいなかった。自分と三上だけが在る。だから取り繕う必要がない。だからもう言ってもいい。
「フラフラしてないとね、爆発しそうになるんだよ?」
自嘲的で攻撃的な、その声の意味を三上は本能で分かっていたのかもしれない。
三上はゆっくりと顔を上げた。不思議と怖くはなかった。
「やーっと手に入ったと思ったらさ、他の奴らんとこにもヒラヒラ飛んでって」
愛しい人を見つめて藤代は少し過去に想いをめぐらせる。
最初のほころびは「酉」の渋沢だった。
藤代がまだ高校に上がる前、渋沢の「呪い」は、ぽろりと解けたらしい。それくらい呆気なく三上の世界の「絆」はほどけていった。そして三上はそれをひた隠し、渋沢を常に側に置いていた。必死に、それはもう縋りつくように。
気に入らなかった。
俺はちゃんと言ったのに、そんな子供じみた感想が呼び起こしたのはもうずっと昔の記憶。捩れて、壊れて、崩れていくずっと、ずっと前の。
『大好き、三上先輩』
言ったじゃん、俺は。自分だって覚えてたくせに。逃げたくせに。
「裏切り者」
自分のやり方が正しいなんて思ったことも無いし、三上の事情も今となっては全て知っているが、藤代はつくづく思う。責めて当たり前だ、と。ほんの小さな間の後、三上の口が空を食みながら動く。
「で……おま、お前だって!」
「俺はズルイし、お子様だから。自分が傷つくの嫌だし、損すんのとか死んでもゴメンだもん」
藤代の表情は笑っていた。あまりにも我侭な言葉に反比例するように、優しく。
一体お前は何なんだ、と瞳を向けてくる三上をまっすぐ見て。
「一回手に入れたら絶対手放したくないし。誰にも、触らせたくない」
本当のことを言うのは久しぶりだった。
そうやって気持ちも身体も追い詰めて、三上の頬へ藤代の指が動く。瞬間、ずっと凍っていた三上の身体がかつてないほどに怯える。後ずさった身体と壁がぶつかった。それを分かってるじゃないか、と内心で藤代は喜ぶ。
「そうだね、拒絶すんなら今のうちにしてよ」
この指に応える意味を取り違えてもらっちゃ困るのだ。もう2度目は無いのだから。
同じことを繰り返すほど、自分はお人よしではないし、許せる余裕もない。何より、この熱情をその程度だと思われたくはない。
「俺もね、成長して少しだけ譲歩っての覚えたから。逃げ出す猶予、あげますよ」
三上を追い詰めていた藤代は、間合いを広げるために上体を外に少しだけ傾けた。だからまだ大丈夫だと笑ってアピールする。欲しくて、欲しくて、たまらないけど。だけどでも。まだ。
身勝手ですらある『譲歩』に意味がないことも知りながら、そして藤代はくるりと向きを変えた。視界の端に捕らえた窓から見た外は、もうすっかり日が落ちている。歩き出しても三上の言葉はなかった。部屋を完璧に出る前に、藤代は思いついたように振り返った。
無論その言葉を今思いついたわけではない。
それは十数年間、藤代の中にあって、藤代を突き動かして、藤代が愛していたものだった。
「でも、もし」
その言葉を藤代は三上に言う。
「もう一回、俺のところに来たら」
”分かるよね?”
藤代は先程より更に暗くなってしまった廊下を歩いて外に出る。
そこで見上げた空には月もなかった。