世界が裏返ってひたすら空に落ちていくような、悪夢のような春だった。
正式に部隊のB級降格が通達されたその日のうちに、二宮は隊員たちにこれからの選択肢を説明した。A級とB級では待遇も変わるうえに2シーズン確定で昇格はない。今回の件は彼らになんの責もないことで、だからこそ何をおいても彼らの希望を第一とするつもりだった。二宮は、だから当然隊の解散についても言及した。しかしその提案は誰からも検討すらされず、まるで存在しないかのように扱われ、認め、信じた才能たちはみなその力を引き続き二宮の元で使うことを選んだ。
今日から二宮隊は四人編成のB級部隊として、A級1位と部隊での遠征を目指す。その言葉に、はい、と三人の声が返ってきた瞬間、ようやく二宮は呼吸の仕方を思い出した、そんな心地がした。
出水から連絡があったのはその翌週のことで、久々に登校した大学からの帰り道に「どうしますか」という平仮名6文字だけが二宮の端末に届いた。依頼した指導の件だということはすぐに察しがつき、返信を打つ代わりに通話アプリを使って呼び出せば出水はすぐに応答した。
『ちょい待って、移動します』
「ああ」
彼の声の後ろで鳴っていたテレビゲームと思しき電子音が少しずつ小さくなって、やがて聞こえなくなる。二宮さん。改めてこちらの名前を呼んだ出水の声は、冷えた水のようにはっきりと鼓膜を打った。
『どうしますか』
送ってきたメッセージそのままに出水は問う。二宮の返答は決まっていた。
「頼む、連絡が遅れて悪かった」
『了解です。あの、おれちょっと考えたこと先に話したくて、今週どっか時間あります?』
二宮が二つほど挙げた日程のうち、出水は早い方の日付を選び、そしてB級ランク戦用の観覧室、その二階席にあたるフロアという意外な場所を指定した。
「あそこ喫煙じゃなかったか」
『そうそう、だから全然人気ないんすよ、いい?』
「……分かった」
本部での稽古場所と言えば隊室か個人戦ブースくらいしか頭になかったが、彼の口ぶり的になんらかの意図があってのことだろう。そう思って了承する。
『んじゃ明後日そこで、おつかれーっす』
重みのないあかるい声は、礼を述べようとして置いた一呼吸のあいだに転がってはまり、そのままぷつんと通話は切れた。
そのフロアは「ランク戦観戦ブースの二階席」と位置づけられているものの、外部からのスポンサーや来賓のアテンドを想定したスペースなので一階席からは直接上がれない構造になっている。全然人気がないという出水の言葉通り、現役隊員は未成年が多いし、モニターは下の階の方が見やすいので、わざわざこちらに来る理由はない。入隊して二年以上経つが、二宮自身この場所に入るのは初めてだった。
部屋が広いせいか、ほとんど煙の匂いはしない。街中にある喫煙所の側で嗅ぐようなこもった煙臭さが充満していたら移動を提案しようと思ったが、これならばいいかと壁際のソファに腰を下ろした。
約束の時間まではあと5分ほどある。今はランク戦がないのでモニターはオフのまま、一階席にも隊員の姿はない。カウンターテーブルに並べられた灰皿にも灰殻は見当たらず、白い蛍光灯のひかりをひたすら反射していた。
次の誕生日を迎えたら酒も煙草も解禁されるが、二宮はそれらの嗜好品にそこまで興味はない。ただ「二十歳になったら飲みに連れて行ってやる」と、かつて東が結んでくれた約束は嬉しくて、だから自分も時が来たらそうしてやりたいと思っていた。まずは、犬飼と鳩原に。
「お、二宮さんもういる」
ぐらりと足元が傾きかけた瞬間、意識が引き戻される。隊服ではなく学生服姿の出水は猫のようにするりとフロアに入ってきた。
「おつかれさまっす」
「おう」
「全然タバコ臭くないっすね。ラッキー」
「……どうしてここなんだ」
「二宮さんとこにおれが行くの流石に目立つでしょ、ほかの人もいるだろうし」
「頼んだのはこちらだ」
自分が出向くつもりだったと言外に伝えれば「いやうち太刀川さんいますから、ケンカするでしょ」と、当たり前のように返される。思わず顔をしかめると出水は眉を持ち上げていたずらっぽく笑い、それから探るように視線を揺らした。
「つーのはまあ半分冗談で、おれもうち来てもらおうと思ってたんすけど、ちょっと今はやめとこっかなーみたいな。柚宇さん、学校で結構鳩原先輩のこと聞かれてたみたいで、まだそっとしときたいっていうか」
「そうか」
冷たい膜が心臓を覆い、静かに引き絞られる。あの日から幾度も繰り返した感覚だった。
鳩原の密航については緘口令が敷かれており、上位チームとはいえ太刀川隊に情報は開示されていない。鳩原はもういない。そこにはただ空席がある。
「個人戦のとこでもいーんじゃねって思ったんすけど、それだと結局いつもの対戦になっちゃいそうだし」
ていうか二宮さん、別におれとランク戦したくてあれ言ったわけじゃないでしょ。
出水の言葉は質問ではなく確認だった。荷物も下ろさず、椅子にも座らず、二宮の正面に立ったまま出水は話を続けていく。
「あのとき二宮さん射撃の技術って言ったけどさ、今更おれが基本的なこと教える必要ないじゃん? 難易度高めの合成弾とか細かいハウンドの9段打ちとかだって、別にそれは二宮さんひとりで練習できるじゃないすか」
二宮の申し出を受けたときから考えていたのだろう。年下の後輩はすらすらと語り続ける。
「じゃあなんでって考えてて、今期のランク戦、おれ結構マンツーで唯我落とされないようにしてたから、そういうことかって思って一回納得したんすけど」
出水はそこでぴたりと言葉を止めた。揺れる瞳が、けれどまっすぐこちらを射貫く。
「けど、なんだ」
「おれ今からひどいこと言いますよ」
続けろ。二宮がそう促すと出水はかすかに息を吸った。逃げないし、逃がさない。そういう覚悟を持って出水は言った。
「もういないじゃないですか、鳩原先輩」
だから聞いたんです。どうしますかって。おれ的にはキャンセルでも全然いいっていうか、べつに気にしないでいいっすよってつもりで。でもやるって言うし。すこしずつ早口になる出水はどこか心細そうだった。どんな顔をして、どんな声で話せばいいのか分からないというように、緊張が全身から漏れ出しているようだった。
「二宮さん、結局おれになにしてほしいんですか」
それでも彼は二宮の前に立って、確かめるべきことを確かめ、伝えるべきことを伝えている。それはまさしく誠実な師の姿だった。
「出水」
「……なんすか」
「お前指導側向いてそうだな」
「はー!? おれの話聞いてた!?」
想定外の言葉に脱力したのか、強張っていた表情は次第にゆるみ、呆れたようにちいさく噴き出した。
「もーなんすかそのレビュー」
認めている才能が別の角度でもひかるのは気分がいい。
そんなことを思いつつ口をひらく。今度はこちらが弟子入りした身として言葉を尽くす番だった。あのときは鳩原とともに4人で遠征に行くために、今はランク戦を勝ち上がり遠征部隊に選ばれるために、新しい強さを求めているということを説明する。二宮が話し終えると、黙って聞いていた出水が静かに、しかしはっきりと反論した。
「だけどそれって今の二宮隊の強みを消すことになりませんか」
「これまでの戦法を捨てるわけじゃない。相手が撃ってくるならこれまで通り火力で潰すまでだ」
「いやでも、」
「今のままじゃ|太刀川隊《おまえら》を倒せない」
出水の瞳が小さく見開かれ、唇が何も言わずに引き結ばれた。白く明るい部屋にゆるやかに広がっていく沈黙のなか、ぴんと糸を張ったように視線が合う。
「でも、じゃあもっかい同じこと聞きますけど、おれなにしたらいいんですか? 全体的な戦局の読み方とか聞かれても無理っすよ」
「それは期待してない」
「なんか生意気な弟子とっちゃったな」
わざとらしくこちらに聞かせてくるひとり言を鼻を鳴らしてあしらってやる。
「知りたいのは、お前の実戦での思考と判断基準だ」
使う弾の種類。威力・弾速・射程の設定。射出方向の調整。着弾の順序。弾それぞれの性能の活かし方。そもそもの選択肢が無限にある射手というポジションにおいて、手数を増やし続け、またそれを実戦で使いこなしているのが出水だ。合成弾の異常な生成速度や弾道をリアルタイムで設定できる技術については取り沙汰されることが多いし、それはたしかに彼の強みではあるけれど今はその膨大な選択肢のなかから、チームの勝利につながる最高の一手を選べるその思考こそが知りたかった。
「それを学べる相手はお前以外いないだろ」
「はは、すっげえくどき文句……念の為聞きますけど、ランク戦想定ってことでいいんすよね」
その確認で二宮は遠征先での出水の実戦を知らないことに思い当たった。二宮に明かせないことがあるように、出水にも明かせないことがあるのは当然だ。
「ああ」
「オッケ、わかりました。それじゃあ……」
出水は二宮のほうにすいっと寄ると、そのまま隣に腰かけた。持っていた学生カバンの中からボーダー支給品のタブレットを取り出し、手慣れた様子でそれを操るとランク戦動画ログのうち、太刀川隊が参加しているラウンドだけを検索して表示させた。
「こういうのどうすか」
タブレットケースをスタンド代わりにして自分の膝のうえで固定させた出水は、二宮にも画面が見えるようにそれを微妙に傾けてみせる。
「うちの動画流すんで、どのタイミングでおれが何したのか、どうしてそうしたのかおれ自身で覚えてる範囲で解説入れてきます。そこから法則みたいなの見つけてもらうのどう? 二宮さんなら材料そろえたら自分で分析する方が早そうですし」
「いいのか?」
ランク戦での思考と判断基準が知りたいという要求に対して出水の提案はこれ以上なく効率的だが、それはつまり手の内どころか頭の内を晒す行為だ。
「別にいいっすよ、過去ログだし。ていうか東さんとか風間さんにはもう分析されてそうだしね」
そんじゃこの前のラウンド1から流しまーす。歌うように言って出水は動画の再生をはじめた。
それから週に1、2回ほど、二宮と出水は時間を合わせてこのフロアに集うようになった。二宮が早々に出水の膝のうえのタブレットが見づらいとクレームをつけたので、ソファからカウンタースツールでの横並びに場所を変えたものの、「講義」自体は太刀川隊が参加したランク戦のログを流し、出水の解説を聞きながら二宮が適宜質疑を挟むという同じスタイルを続けている。
通ってみればこの場所はいつも人気がなく、集中して受講するには都合が良かった。ごくたまに職員が立ち寄るものの、彼らはみな煙草を1本吸い終わると職場に戻っていく。隊員に会ったことはほとんどなく、迷い込んだC級が通りがかったくらいだった。
「右が速さ重視のアステ25くらい。この時点で置き玉4くらい仕込んで、残りは半分ずつ上と左」
「どうして射出方向を分けた、上から全弾散らせば早いだろ」
「唯我の死角潰し。あとついでに南西の牽制。もうアラートもらってるからこっちに影浦先輩いるの分かってたんで、焦っておれが取らなくてもこういう軌道にしとけば時間稼げて太刀川さんが来れるでしょ」
「それは博打だろ」
「いや絶対間に合う。だからおれはこっちで威力強めのバイパー、分割は8くらい? これで唯我の火力と合わせて裏の小寺削り切ります」
画面のなかで太刀川の逆袈裟斬りを受けた影浦の身体がふたつに別れ、空に向かって光が走る。このベイルアウトで太刀川隊の1位抜けが決まり、動画は停止した。
「一応これで去年のログ全部さらいましたけど、次どうします? 適当に知り合い声かけてチーム模擬戦とかします?」
「いや、来週からB級ランク戦がはじまる。そのフィードバックをもらいたい」
「ああもう次のシーズンはじまるんすね、オッケーす」
昇格はなくとも、まずは最速でB級1位になる。犬飼、辻、氷見、そして鳩原の姿が脳裏に浮かび、二宮は静かにタブレットのスイッチを切った。
二宮隊が変わったのは事実だ。けれどその変化は「強くなった」そういう意味でなければならない。絶対に。
浅くなりかけた呼吸に気づき、長く息を吐いて、吸う。それを数回繰り返してからふと隣に視線を向けると、出水はカウンタースツールに座ったまま、ガラスの向こうの薄暗い空間をぼうっと見つめていた。その瞬間、なにかがそっと二宮の心臓を濡らすように冷やす。
「ね、二宮さん。おれ最近思ったんですけど」
眼下にひろがっているのは磨かれた透明なガラスや電源を切られた黒い大きなモニター、敷き詰められた空っぽの座席くらいだ。なのに出水の声はどこか楽し気に弾んでいた。まるで目に見えないなにかに、ここではないどこかに惹かれているように。
「射手って他ポジと違って武器要らないじゃないすか。もちろんちゃんと換装して実際に撃つのが一番楽しいけど、どの弾どういう分割にして、どういう威力で、どういう軌道で撃つのかってのは、いつだって考えられるし」
やっぱ射手って超楽しい。
右手の五指をそっと踊らせ、出水は虚空に向かって無邪気に笑った。その様子にぞっとする。気づいたときには二宮は出水の肩を掴んでいた。
「二宮さん?」
不思議そうにぽかんとこちらを見上げた出水はいつも通りで、安心すると同時に困惑する。なにを恐れたのか分からない。けれどたしかに二宮の心臓は揺れた。これ以上は良くないと、なにかが警鐘を鳴らしたのだ。
「……お前もう今日は上がりか」
「? はい」
「じゃあ荷物とってこい、飯行くぞ」
自分を落ち着かせるために一呼吸置いてから、彼の肩をかるく叩いて立ち上がる。すると出水はぱちぱちと幼いやり方で瞬きを繰り返したのち、気まずそうに視線をさまよわせた。
「あー、えーっと、今日はまあ、上がりは上がりなんすけど……」
「都合が悪いなら普通に言え」
「いや、用っていうほどじゃねーっていうか、まあ、なんか帰れたら一緒に帰る、みたいな、そういう感じで」
なんだその付き合いたての高校生みたいなフワッとした約束は、と言いかけて口をつぐんだ。馬鹿か俺は。こいつは正真正銘の高校生だ。そんな当たり前のことを思い出すと同時に、不思議な安堵感が胸のなかに広がっていく。
「……そうか」
本部内での色恋話は少ないが、それでもまあゼロではない。基本みんな隠しますしね、と笑っていたのは犬飼だ。出水にそういう相手がいたとしても何も不思議ではない。
「ちゃんと約束してるわけじゃなくて、ていうか、なんかそうなったのもノリっていうか、流れぽくて、おれマジすぐフラれるかもなんすけど」
「お前何の話してんだ。食事はまた誘う、変な気をまわすな」
「……二宮さん」
「なんだ」
「付き合うって普通なにすんの?」
照れと拗ねが混ざりあったような表情で質問されれば、流石に甘えられているのだと分かる。たどたどしさに絆され「手でも繋いどきゃいいだろ」と、自分にしては破格の応対をしてやれば、出水は態度を一変させ、好奇心をあふれさせた瞳を爛々と輝かせた。
「マジ!? 二宮さん外で手ぇつなぐんすか!?」
「さっさと行け」
追い払うように二宮が片手を振ると、出水は笑いながら席を立ち、何度か振り返りながら部屋を出ていった。次第に足音は遠く消えていき、ひとりきりになった部屋で二宮は出水が座っていた回転スツールの背もたれを掴んで元に戻す。そのままガラス越しの階下を改めて眺めた。依然照明もモニターもついておらず、観覧席には誰も居ない。
この薄暗い空白に、出水はなにを見たのだろうか。
「―――あれ、二宮だけ? あいつは?」
鼓膜に届いた男の声に、振り返るよりも早く反射的に表情がゆがむ。きょろきょろとあたりを見渡しながらやってきたのは太刀川だった。
「用事があるらしいんでもう帰らせた。急ぎでないなら明日にしろ」
隊服ではないということは任務ではないのだろう。出水のとても個人的な予定を二宮から伝えるつもりはなく、またこいつのことだから隊員の恋愛話を聞いた日には趣味悪くからかったりしそうだと思い、ぼかした表現に留めておく。
「お、じゃあ行き違いか」
「話聞いてんのか」
なにを言っているんだこの野郎は。暢気に入口を振り返って髪をかく太刀川に、二宮は棘の含んだ眼差しを向ける。しかし当人はそれを気にした様子もなく二宮に向き直ると「うん、だからそれ、その用事が俺」と、あっさりのたまった。
「あ?」
「出水のカノジョだろ? あーいや、彼氏? まあとにかくそれが俺」
「………………どういうつもりだ」
「お前がコイバナに興味あるとは思わなかったな」
「ふざけるな」
苛立ちが滲み、低い掠れた声が出た。太刀川は黙っている。二宮はポケットに入れたトリガーを握りしめた。返答次第じゃ個人戦ブースにぶち込んでやるつもりだが、太刀川は出水の心を軽んじて悪戯に傷つけるようなことはしない。それは事実として理解している。何一つ気に食わない相手ではあるが、だからそれでも了見を聞くつもりはあった。
二宮に引くつもりがないことを悟ったのか、軽く肩をすくめた太刀川はようやく口を開いた。
「あいつ、ここんとこしばらく個人戦もしないでずっとランク戦の過去ログ見まくってたんだよ。昔のとかB級のとか、うちが出てる出てないも関係なく、もー手当たり次第。そんでようやく見終わったと思ったら、今度は脳内シミュレーションしてるっぽくてさぁ、気づくとネコかなんかみたいにじーっとどっか見てたりすんの」
先ほどの虚空を楽しげに見つめていた彼の姿が脳裏に浮かぶ。それと同時に自分が指導を依頼したことが「そうなった」端緒であることを確信した。
今思えば講義の回を重ねるごとに出水の解説は的確になるだけではなく、別パターンの展開や思考実験のような仮定を付け加えることが増えていた。
唇を小さく噛んだ二宮に対して、太刀川はゆるく笑いながらゆっくりと首を振った。
「誤解すんなよ、別にお前が気にすることじゃない。俺はお前とあいつが強くなることになんの文句もないし、むしろ楽しみなくらいだ」
これがあいつのやり方ってだけだろ。まるで物わかりのいい大人のように穏やかに付け足した太刀川に、ならばどうして、と視線で詰める。
「だからまあ……別の都合」
「都合?」
「横顔ばっか見てるうちに、ひとりでどっか行かないでほしいって思っちゃったんだよなあ」
普段のらりくらりとうそぶいてばかりいる男は、情けなく笑いながら静かに望みを口にした。
「……出水は心配ないだろ」
「鳩原も大丈夫だと思ってたよ」
太刀川の声が空洞の縁をなぞり、痺れるように理解した。傍らの他人がなにを求め、なにに惹かれるのか。分からないことを恐れ、知りたいと希っているのは自分だけではないのだと。
「そうか」
苦いシンパシーが腹に落ち、血液がすこしずつ熱を持って身体をめぐっていく。握りしめていたトリガーの輪郭をたどり、もう一度それを強く握った。分からないことばかりだけれど、それでも誰かのこころに近づきたいのなら足掻くしかないのだ。けして触れられないと知りながら、|異《あだ》し宇宙に手を伸ばす。
「無理強いしてねえだろうな、あいつ流れで付き合ったとか言ってたぞ」
「え、してないしてない、ていうか俺もびっくりしてんだよ、まさかOKされるとは思わなかった」
なに考えてんだろうなぁ、あいつ。
ぽつりとこぼれた太刀川の問いかけに、答えられるのは一人だけ。
「泣かすなよ」
だから二宮から言えるのは精々これくらいだ。
癖毛の隙間から存外大きな瞳を見開いた太刀川は、善処する、と笑って踵を返した。
再び一人きりになったフロアのなか、視界の端でステンレスの灰皿がひかる。喫煙者が煙草を吸いたくなるのは、こんなときなのかもしれない。近界に煙草はあるのだろうか。鳩原に会ったら聞いてみようと思った。
END
20240615-16 エワ10開催おめでとうございます。