ぼくらはそれを我慢できない

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 その日、赤井秀一は紙袋を提げて歩いていた。厚手のクラフト紙に緑色のインクで店のロゴが刷られているそれには葱やら肉やら卵やらの食材がたっぷり入っている。重量はそれなりにあったけれど、親切な店員が袋を二枚重ねにしてくれているので底抜けする心配は無いだろう。
 メトロへの階段を降りようか少し迷い、結局人混みを避けるために歩いて帰ることにした。
ジャケットは置いてきて正解だったな。
汗ばむほどでないけれどそう思うほど温かい日だ。陽ざしを受けて揺れる街路樹の新緑は瑞々しく美しかった。
向かいからクマの顔のポシェットを提げた子どもが走ってきた。笑いながらも忙しなくくるくると回ってはしゃいでいる。楽しくて仕方がないようなその様子に転びそうだと思うと同時に幼い頃の妹を連想した。本人に言えば何年前の話だよと膨れられそうだったが、まともに一緒に暮らしていなかったこともあって彼女に関しては未だにどうにも実年齢以下の扱いをしてしまいがちだ。
「あ」
案の定、子どもは街路樹のまわりに埋めてあったレンガに靴をひっかける。反射的に手を伸ばしかけはしたが、間一髪、子どもの父親と思しき男性が寸でのところで彼女の腕を掴んで事なきを得た。
「ほら、気をつけないと」
「はあい」
親子は立ち止まり手を繋ぐ。赤井は左手でニット帽の折り返しをそっと直し素知らぬ顔で親子の脇を抜けていった。愛すべき平和な午後だった。
五月の連休真っただ中にあるこの島国に赤井が降り立ったのは、今から二十時間ほど前になる。到着後、ホテルの部屋に籠ってこんこんと眠り、今日になってようやく外に出たところだった。
今回の訪日理由は一割仕事、九割休暇だ。仕事の方は、外務省へのいわゆる事務的なお遣いで、既に本日の午前に終わっている。ここから六日は完全なフリータイムだった。休暇の過ごし方を尋ねてきたあちらの同僚には家族と過ごすと当たり障りなく答えたものの、実際に彼らと会うのは明日のみで、他の時間は気ままに過ごすつもりだった。
とは言え仕事の拠点を米国に据えて十数年が経とうとする今、この国で赤井を知る人間はそれほど多くない。思い浮かぶのは、若き名探偵と世話になった工藤夫妻、明美の妹、それと。
―――彼、くらいか。
降谷と直接言葉を交わしたのは、もう一年ほど前になる。あの組織を倒すために小さな名探偵を中心に考えだした「最後の作戦」が成功をおさめると、赤井と降谷は二人ですこしだけ話をした。件の作戦で重要かつ危険な役どころを担っていた二人の身体は、そのとき当然粉塵まみれで怪我だらけというありさまで、会話でもしていないと意識が飛びそうだったことを覚えている。
大活躍をした彼のこと。自分を愛してくれた人のこと。自分が愛していた人のこと。嘘をついていたこと。すべて知っているということ。
救援と夜明けを待ちながら、互いの手持ちのカードを一枚ずつ明かしていくように赤井と降谷はただただ順番に言葉を交わし合った。
腹が減ったと言ったのはどちらだったか忘れたが、そこから降谷は食べたいものをひたすら列挙しはじめた。醤油ラーメン、焼肉、ひき肉と茄子のドリア、寿司、エビチリ、白米とめんたいこ、味噌汁。
「あ、くそ……今年春鰹まだ食べてない……」
「……その拷問をやめてくれ……腹が鳴りそうだ……」
「はは、じゃあ――――」
それが、赤井が降谷と交わした最後の会話である。
気持ちの良い風が喉仏を撫でていく。低気圧が近づいているはずの空はまだ穏やかで、西の方だけほのかに絵の具を垂らしたようにこってりとした橙色をしていた。

エレベーターで部屋のあるフロアへ上がり、左右に伸びる長い廊下を右へと進んだ。赤井は買い物袋を揺らしながら、道なりにまっすぐ歩いていく。このホテルはエレベーターホールを中心にコの字型になっているようで、赤井が借りている部屋までは少しばかり歩く必要があった。緊急時は非常扉側の業務用エレベーターを使った方が早そうだな、などと職業病のような想定しながら角を曲がると、十メートルほど前に客らしき男が一人歩いていた。
一八〇前後の身長に明るい金の髪。紺のスーツ、上着は手で持っている。足元はリーガルだろうか、きちんとした革靴を履きながらもその足取りには濃い疲労がにじんでいた。男はキャスターのついた小さめのスーツケースを引いており、かさかさと鳴らしている音はコンビニのビニール袋のようだ。頭が痛むようで、時折米神を抑えるような仕草をしている。
彼に、似ている。
足を進めながらそう思った。声をかけようかと迷ったものの、後ろ姿からもその人物がひどく憔悴していることは見て取れたので躊躇してしまう。そのうち男は赤井の部屋の前を通りすぎていったので声をかけるのはやめてポケットに入れた自室の鍵を探しはじめた。その刹那だった。
「―――ッ!」
獲物を見つけた蛇のごとき速さで死角から伸びてきた男の手を、寸でのところで打ち払った。赤井は骨を打った感触を確かめつつ荷物を手放し標的と距離をとる。正面から対峙した瞬間、やはり、と、まさか、が脳の中に同時に響いた。
ごろり。床に落ちた紙袋から、玉ねぎがひとつ転がっていく。
「あか、い?」
先に声を発したのは彼だった。呆然とした表情のまま、なんとかそれだけ音にする。赤井もようやく声の出し方を思い出して「ああ」と発した。
「久しぶりだな、安室くん」

***


 赤井はすこしだけ蓋を開けて鍋の中を確認すると、リビングの脇に畳んであったスツール椅子を持ってコンロ前に戻った。狭いは狭いが自分が座るだけだ、悪くないだろう。こちらの空港で買った優作氏の新作を読みながら、肉が煮込まれるのを待とうと思う。
どうせならコーヒーも準備しようと電気ケトルで湯を沸かしていると、扉のロックの開く音がして控えめにドアがひらく。赤井が顔だけで振り返れば、降谷が鍋とともに戻ってきた。
「……本当にお前が料理するんだな」
「意外か?」
「沖矢昴用の設定かと思ってましたよ」
「知らない名だな。友人か?」
「ああそうかよ」
この野郎いけしゃあしゃあと。そんな声が聞こえてきそうな胡乱な瞳をかわしながら、降谷から鍋を受け取った。
「特に予定が詰まっているわけでないし、久しぶりに何か作ってみたくなってな。ただ流石に調理器具から揃える気にはなれなくていっそと思ってこの部屋をとったんだ」
「……そうですか」
 降谷はぽつんとそれだけ言って赤井とキッチンから視線をゆっくりと外した。何か言いたそうであることは察するものの、その中身までは残念ながら見当がつかない。降谷はしかしぼんやりと部屋のなかを眺めている。
「飲み物を淹れようと思っていたんだが、よかったら君も飲むか」
「え?」
「別に何も入れやしないが」
「今更そんな心配してませんよ」
「なら、そちらに座っていてくれ」
 持ってきたばかりのスツール椅子を折りたたみ、降谷をリビングのソファへ座るように促すと赤井は戸棚からティーカップを探し出した。そして小さなバスケットに入っていたティーパックのうちカモミールのそれを選んで取り出し、ケトルの湯が沸くのを待つ。
弱火にかけられた鍋からはひどく優しい音がしていた。くつくつ。こぽこぽ。くつくつ。こぽこぽ。まるくてやわらかい生活の音だ。
赤井はそっとリビングの方を伺い見る。降谷は借りてきた猫のようにソファの端に座っていた。
最終的には信頼に足る仕事仲間だったとはいえ、爆炎や血や硝煙にまみれて殴り合ってばかりいた相手だ。そんな男と同じ部屋にいて鍋とケトルの音を聴いている。
壁に寄りかかって赤井はすこしだけ目を細める。
くつくつ。こぽこぽ。くつくつ。こぽこぽ。赤井と降谷をふやかすように、湯気のような時間が過ぎていく。


***


「今日は楽しかったよ、食事も美味かった。ありがとう」
自室のドアの前で、赤井はそう言った。隣を歩く降谷はひどく穏やかな表情で、僕も楽しかったです、と返した。
「君の事だからもう知っているかもしれないが、来月末もこちらに来る。今度は仕事でな」
「小耳に挟みましたよ。外交官の護衛でしたっけ」
「ああ。単独の仕事じゃないから、フリータイムがある」
「……それは、よかったですね」
「それで、君がよければそのときにまた食事でも、と思ったんだが……」
しん、と降谷の空気が変わる。赤井は降谷の顔を覗き込み、かすかな確信を持って言った。
「誘ったら、君を困らせるだろうか」
「…………正直、少し」
降谷の綺麗な青は赤井を映す。彼の考えは読み取れない。
「……理由をきいても?」
二人は昨日と同じように、赤井の部屋の扉の前で向かい合った。しばしの沈黙ののち、降谷はようやく口を開く。
「去年、埠頭で救援を待った日のこと、覚えてますか」
覚えていると、赤井は頷いた。
「あのあと色々考えたんです。考えて」
あなたとこれ以上関わるのは、やめた方がいいかもしれない、と思ったんです。
降谷はまるで唄の一節のようになめらかにそう言った。想像もしなかった発言に赤井は思考が止まりかける。
「今日の食事はそう思う前に言ったことだったし、あなたも覚えてたみたいだから誘わせてもらいましたけれど、これでお終いにした方がいいかも、と」
目眩がしそうだった。彼は自分がなにを言っているのか分かっているのだろうか。
淡々と紡がれる降谷の声は機械のようで、混乱して脳が揺れる。安物の鈍いナイフで切られたときのような痛みと不快感が腹の中に溜まっていく。怒りに似たなにかが生き物のように暴れまわっている。
「……君は、本気でそう思ってるのか」
「こんなこと冗談で言いませんよ、というか、流石に直接言うつもりもなかったです」
そして赤井の怒りに似たなにかを入れた檻は、その一言であっけなく壊れてしまった。
なぁ、降谷くん。深い呼吸のあと、赤井はしずかに名前を呼ぶとできるだけ柔らかく笑った。
「君はまだ分かっていないのか」
「―――え、」
そのまま赤井は降谷の唇を塞ぐ。舌は入れずにただ触れるだけのそれだが、利き手を彼の頭にまわし降谷の逃げ場を奪うことは忘れなかった。
降谷の大きな瞳が限界まで見開かれる。それを無事に見届けると、赤井は今ここで起こった現実を念押しするように、あからさまなリップ音を立ててから降谷を離した。