春が近いとは言え、まだまだ夜は冷える。そんな時期の買出しはいつだって敗者の仕事だ。寒い寒い、と繰り返しながら任務を遂行し、屋内とは思えないくらいに冷えた階段を駆け上り、ここを曲がれば談話室、という瞬間だった。
ひどく冷えた手で、同じくらい冷えた手首を捕まれたのは。
「オイ」
「何ですか」
「放せ」
命令形の言葉に返されたのは、極上の可愛らしい笑顔だ。それを見てこの男はきっと己の価値や使い方を熟知しているのだろう、と三上は思った。
「……放せ、藤代」
もう一度同じ言葉を繰り返すが、藤代は三上の右手を握る力を緩めようとはせずに、逆に力を込めて三上の身体ごと壁に押し付けた。その拍子に持っていたコンビニの袋から手が放れる。自分が行かないとなると分かった途端に好き勝手に注文された菓子やら飲み物やらでぱんぱんのそれは、派手な音を立てて床に落ちた。
「あ、すんません。コーラ入ってたのに」
謝罪を口にしながら、藤代は自分の袋は慎重に足元へ落とす。謝るのはそこなのか、と三上が眉の皺を増やした瞬間、藤代はいきなり押さえつけた三上の指の股に舌を這わせた。
「……っ」
びくりと小さく三上の肩が跳ねる。それに気分を良くしたのか、そのまま藤代の舌は中指と薬指の間をゆっくりと辿っていった。
「お前、何サカってんだ」
あえて手首の拘束を振りほどこうとはせずに、三上はできるだけ冷静にそう告げる。こっちが焦れば焦るほど、困れば困るほど、嫌がれば嫌がるほどに、藤代はとても愉しそうにするのだ。今だって十分に愉しそうなこの男を、これ以上喜ばせるのは癪だった。
「あいつら待ってんだから」
「ミニストの方行ったって言えばいんじゃないですか?」
松葉寮生がお世話になるコンビニは主に二店あり、確かに藤代の言うミニストップは二人が行ったセブンイレブンの1.5倍くらいの距離がある。
「セブンの袋持って?」
「あ」
視線で床に落ちた緑で大きく7とロゴの入っている袋を示せば、ひどく幼い様子で藤代は自分の偽装の穴に気付いたらしい。
「分かったら放せ」
ふう、と息を吐いて、三上は捕まれたままの右手でこつんと壁を鳴らした。
藤代の考えが読めないのは今に始まったことではない。三上は相変わらずの後輩に呆れながら、内心で少し焦っていた。
藤代にはスイッチが入る瞬間がある。そして今はきっとその直前だ、という確信があった。
普段のあの人懐こい藤代誠二を猫かぶりだとは別に思っていないし、どっちが本性だなんてことを誰かに訴えたいわけでもなかった。そんな面倒な生き方をする人間ではないことくらい知っているし、それは事実でもあると思っている。多少の計算はあれど、だが。
どこまでも無邪気にそして同じくらい残酷に。ボールをゴールへと走るあの姿が全てを体言している。あれが藤代だ。目的のためならば、天真さも、獰猛さも、全てを迷わず武器にできる男、それが目の前の男だ。
コートの中では確かに魅力的なスター選手だ。「友人」として付き合うのなら、何も気にならないだろう。だが、一線違った関係に居る自分にとっては、冗談ではない、というのが正直な感想だった。
対等だったはずが、一瞬にして捕食者と被食者になってしまうのだから。
これに関しての対処法は、知り合ってから4年、そういう関係になってからほぼ1年たった今でさえ、何の進歩もないまま探しあぐねているのが現状だ。
もう本当は対処法なんて存在していないのではないか、そう考えると三上の口から深い溜息が漏れた。
「それ、感じ悪いなぁ」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、全身が総毛だった。
「ねえ、溜息吐いちゃうくらい真剣に、何考えてんの?」
耳にふっと息を吹きかけるようにして、ゆっくりと藤代は話し続けてくる。その声は小さく低く、そしてひどく熱っぽかった。
それが三上の耳から入り込む。血のように首や腰、指の先までじんわりと巡り、殊更ゆっくりに足元へ落ちていくような錯覚に襲われた。
逃げたくても逃げられない、一瞬にして身体中が支配される。
「やめろ……っ!」
背筋を悪寒に似たものが走ったが、必死で振り切る。空いていた左手で藤代の胸板を押し返そうとするが、逆に藤代は自分の空いている方の手のひらでそれを受け止めると、あろうことか指を絡めてきた。それにより更に三上の脳裏に思い起こされるであろう記憶。
ほのかに赤くなった表情でそれを確信すると藤代は口端を緩やかに上げた。
「やめろって、俺、別に変な事してないよ」
「あぁ!?」
どの口がそんなことを、と三上は眼前で笑う藤代を睨みつける。当の本人は至極愉しそうにその瞳を受け止めた。
「だって、ただ手掴んで」
絡めたままの三上の左手と自分の右手、それをぐいとお互いの口元まで持ちあげる。そして自分の指が三上の唇に触れるように、軽く押し付けた。
いつも重そうな三上の瞳は一瞬怯えを見せたが、それを押し殺して強い視線を藤代へ送る。それが何よりも藤代を喜ばせると知りながら。
「こうやって、喋ってるだけじゃん」
決して唇を放すことはなく、視線を解くことはなく、藤代は話し続けた。三上が息をするたび、それが藤代の指先に伝わる。耐え切れなくなった三上が視線を乱暴に外すが、それを許さないとでも言うように藤代の中指と人差し指が三上の唇を割った。
「っ!」
「ね、なんでダメなの?」
「っや、め」
耳元で再び囁かれ、三上は反射的に目を瞑った。当然、それで聴覚が遮断されるわけもない。
「ねえ、せんぱい?」
何度目か分からない、熱が身体を走り抜けた。脚が震えて、もうだめだ、と思った瞬間だった。
くす、と藤代が小さく笑ったかと思えば、拘束されていた両手が解放される。
「……?」
「う、さすがに2つは重い」
深く呼吸を繰り返す三上の足元に、ぱっとかがんだ藤代はコンビニ袋をふたつ持ち上げた。
「先輩、後でボイラー室来てよ」
流れも何もないその言葉を訝しんだ視線を遣れば、藤代は先程と同じくらいに距離を詰める。反射で身体を強張らせる三上には決して触れずに、藤代は囁く。
「続き、しよ?」
その声はいっそ殺意が湧くくらいかわいらしく響いた。