「なんかイラつく」
本日、千石の機嫌は悪かった。彼の表情にはいつもの柔らかい笑顔は無く、無表情と不機嫌のあたりをずっと行き来している。
「……何が」
一拍遅れて跡部は千石の独り言に静かに言葉を返した。当たり前のようにひとつしかなかった座椅子に寄りかかって、本を読んでいた彼の視線はまだ小難しそうなそれに落ちたままだ。陰る長い睫が一層彼の美貌を際立たせている。
「……究極的に言えば君の存在」
それが不思議と面白くなくて、千石はあえて彼を怒らせてやろうと溜息交じりにそう言った。そして「似てるから」とクラスの女の子から貰ったひよこのシャープペンをノートへ転がして、見慣れた自室の天井を仰ぎ見る。
このお世辞にも広いとは言えない空間を2人で共有してから軽く1時間経った。だが、課題の手伝いという跡部が千石の部屋に居る元来の理由は、まだ全く意味を持っていない。問題集で指定された部分の問いは、9割近くが空白のままだ。
「てめえそれが教えを請う人間の態度か」
「さっきからただ本読んでるだけじゃん、ちゃんと教えてよ、跡部センセ」
跡部の視線は文庫本から外れたが、お返しとばかりに今度は千石はつまらなそうに化学の教科書に視線を落としたままだった。きっと今の自分の頬には彼と同じ影はないのだろうな、と考えたら、また苛立ちが募る。
自分は今までこんなにも沸点が低い人間だっただろうか、と不思議になるくらい簡単にストレスが募っていく。
「千石」
「なに」
若干乱暴な言い方になったのを誤魔化すように、口角を無理やり上げて笑顔を作ってみる。その行為が一瞬にして、ひどく疲れるものだということに気付いて、彼の為になんでこんな労力を費やさねばならないのか、と更に怒りが沸いて。
彼へのあまりに理不尽な自分の思考をどうにか落ち着かせようと、かけていた眼鏡のズレを直す。上側だけ細いフレームが付いたそれは、もちろん度は入っていない。衝動買いしたオシャレ用だ。
「あのな、お前、考えるのが面倒だから分かんねーって言ってんだろ、俺はそんな奴に1から教えてやるほど親切でも馬鹿でもねえんだよ」
特に抑揚もない彼の声はどんどん逆撫でしていくように千石を通りすぎていく。
「あー! もう! むかつく、だめだ、やれない、もうやだ」
「ガキか、テメー」
溜息をひとつ吐いて再び跡部の視線が本へ落ちた。それを見て、イライラが自分にかかる重力に変換されたのではないかと疑うくらい、千石は身体を動かすことができなくなっていく。
「あーもー……気持ち悪い」
「駄々こねた挙句に仮病って、小学生か、お前」
「うるさいうるさい……なんか、もう、全部違うんだもん」
「違う?」
説明するのも面倒になり眼鏡をしたまま机に突っ伏して、印刷された化学式に頬を合わせて目を閉じる。そのままぴくりともしなくなった千石は、頭の隅の方でこのままいっそ潰されてしまいたい、と小さく思った。
それを見て跡部は文庫本を栞も挟まず閉じると千石の眼鏡をすっと外してやった。それでも千石は微動だにしない。
「何が違うんだよ」
落ち着いた声音でそう言うと、跡部は身体を捻ってベッドの上に置いてあった箱からティッシュを2枚取る。慣れた手つきで左右のレンズを磨きあげると、跡部はそのまま千石の眼鏡をかけた。
「違うのは、俺。むかつくのは、君」
千石はゆっくりとまぶたを持ち上げたが焦点は無い。ぼうっと宙を見つめるだけだ。
「最近、君と居ると、なんかすごい気持ち悪いんだ。ダメになる。」
身体の中に自分じゃない何かが入ってる気がする。できることならこの胸を掻き毟って、皮を引っぺがして、そいつを引きずり出してやりたいくらい、それは危ないものだと自分は知っている。
千石の声はどこか絶望感を感じさせるものだったが、跡部は相槌も反応も取らずにただその言葉たちを聞いていた。
「すごいイライラして、止まんなくて、俺の中はぐちゃぐちゃんなってくんの」
いつもはこんなんじゃない。
「感情のコントロールに関しては結構自信あったのに、なんか君と居るとダメなんだよ、楽しくない」
いつもはもっと、もっと上手なのに。
「俺はね、楽しいのがすきなの。だからいつも楽しくできるようにしてんのに」
こんなのは、俺じゃないみたいだ。
「なのに、君が邪魔する」
もう全部君のせい、と頼りない声で続けると、身体が更に重くなったように千石は感じた。
「ああもうやだ、ごめん、悪いけど」
「千石」
帰って、と千石が言う前に跡部は彼の名前を呼んだ。頬杖をついたその表情はどことなく楽しそうだった。
「なに」
答えはしたものの千石はまだ視線を合わせる気はないらしく、ちらっと一瞬跡部を見遣るとそのまま視線を戻そうとする。だが跡部は乱暴に千石の頬を両手で挟み込むと、強制的に自分の方を向かせた。
「ちょ、痛いよ」
「千石」
「痛いってば」
痛いわけがない、力なんて入れていないのだから。そう思うながら、何も言わずにただまっすぐに千石を見据えれば彼は諦めたように、もう一度「なに」と呟く。
「お前が今そんなぐちゃぐちゃしてんのは、俺と居るからなんだろ?」
「うん……ねえ今更だけど、その眼鏡似合わないね」
間髪入れずに肯定を返す千石に小さく笑い、跡部はゆっくりとその美しい顔を近づけていく。千石の瞳が揺れ、若干の警戒心というようやく感情らしいものが浮かぶ。
「ちょ、近い、っ」
「誰と居ても楽しいくせに、俺と居るときだけ違うんだろ?」
「……そうだ、けど」
跡部は眼鏡を外す。その為に左手を彼の頬から一瞬放したが、それでも千石は逃げようとはしなかった。テーブルに眼鏡を置いて、再び左手は千石の頬へと戻る。
「俺と居ると、いつも普通にできてることができなくなんだろ?」
「うん、まぁ」
目の前の男の答えに満足すると、とても美しく官能的に微笑んで跡部は最後の質問を口にする。
「どうしてだ? 何でお前は俺と居ると、いつも通りにできないんだ?」
「どうしてって……」
数秒後、千石の瞳が小さく見開かれた。
いつも通りが、彼の前でだけ、できない、ということ。
彼と居るときだけ「いつも」になれない。他の人ならできるのに。普段なら気にもとめないことなのに、君だと気になる。そんな自分が制御できなくて、イライラして、もどかしくて、どこか悲しくて。
(ちょっと待て、これって原因ひとつしか浮かばないっ)
そのひとつに思い当たって、跡部のまっすぐな視線と手のひらの先で千石が一瞬ぽかりと真っ白になった。至近距離で跡部を見つめたまま、はくはくとただ唇を動かしていたが、ゆっくりと跡部の手のひらにも分かるくらいに千石の頬が熱くなる。
「分かったか?」
「違う! ばっかじゃないの!? ないないないっ! 絶対ない!! ありえない!!」
「必死だな、お前」
「ああもう喋んなっ! っていうかいい加減離してよ!」