甘い毒

全日本ジュニア選抜強化合宿2日目。
ゲームを終えてコートを出ると、入れ替わりで次に組まれた選手がコートへ入る。この実践試合が本日の最後の練習だった。
ベンチに置いておいたタオルに触れるとその温度に不快になって、軽く舌打してから割り切って額に押し当てる。
もう既に午後4時を過ぎたというのに、太陽はまったく衰えない。だがどちらかと言えば太陽で蒸された土の匂いが熱いと跡部は思う。燃えるようではない、溶かすような暑さが長々と寝そべっている。
「最終試合が終わったら戻ってもいいそうだ」
声の方を向くのが億劫だったが、その必要はなく、その男は俺の傍を通るとベンチの下に置いてあった籠に使っていたのであろうボールを投げ入れた。
「真田」
「どうせもう終わったのだろう」
「誰に物言ってんだよ」
当然だ、とばかりに鼻を鳴らす。もっともそれはこの男にとっても同じことなのだが。す、と視線をコートにくれればさっきすれ違った奴がサービスエースを決めたところだった。
俺たちが一足先に上がる理由は明確だ。「強い」から。
試合を終えるスピードが早いことが一概に強さと直結するわけではない。だが、終えようと思って終えられるのならそれは紛れも無く主導権を得ているというわけで。
そうしてやろうと思うのは、想像と挑戦の力。やりとげたのなら、それはただの強さ。
「3-0、ゲームセット谷野」
フェンスの扉を抜け、コートを背にしたら、隣のコートの主審がライン上に決まったスマッシュを見届けてそうコールした。
「うっわ、悲惨」
「谷野ってあれだろ、父親が元プロの」
「マジ? 谷野って谷野京平だろ? うっそあいつ息子だったんだ」
「つか、つえーな」
「強いそうだぜ、真田」
視線もくれずに、本意もこめず皮肉ってそう言うと生真面目なこの男は静かに右のコートへ瞳を向けた。
「ま、谷野は強いけど、でもしょうがないんじゃねえの、だってアレ相手って」
その試合をフェンス外で観戦している連中の後ろを通る瞬間。
「あぁ手塚の補欠、だっけ?」
その言葉を初めて聞いて抱いた感情を今の瞬間まで忘れたことはない。舌打をしなかったのは、賞賛に値すると思う。
「あぁ、繰り上げの? じゃあしょうがねぇか」
「ラブゲームじゃねえの、これ」
「あいつがそうなの? つかスゲー頭。ブリーチか? あれ」
心底聞きたくない言葉が、優越感のニュアンスで響く。 どうしようもなく、不快になる。
「……相手は千石か」
だから意外だった。この男がその人間の名前を覚えていることに。
「名前知ってたのか」
「あぁ」
素直に驚いて、右側に気をやれば、もっと驚くことになる。真田は足を止めたのだ。負ける気はさらさら無い、が、自分と同レベルと言われている真田だ。そんな人間が足を止める理由なんてあるはずが無いというのに。自分もゆっくりと、視線をそちらへ流す。真田、先ほどのギャラリー、フェンス、主審、コート、オレンジ。
そしてそのオレンジが浮かべたのは、優しく甘く凍るような笑み。
時間が止まったのは俺だけで、そのオレンジはバカみたいに高いトスを上げると、めいいっぱい飛んだ。
その男はそれから1ゲームも落とさないで勝った。
「相変わらず……」
若干目を細めながら、真田がつぶやく。真田にそんなことを言わせた張本人はと言うと、何やら指導者と話していた。もちろんそれは対戦相手に満面の笑みで「ありがとうございました」と言ってからだったが。

シャワーを浴びて、汗を流してから食堂へ向かう。食堂と言うよりは多目的ホールのような広さと作りのそこで、今日はあまり顔を合わさなかった忍足の前に座った。おつかれ、とその友人は言った。
「緑茶ー、ウーロン、コーヒー」
「あ?」
チキンカレーを食べ終えると、その友人はいきなり遠くを見ながら口を開いた。
「オレンジジュース、どれか、飲みたいのある?」
「……コーヒー、ホットで」
ようやく意図するところが分かり、肩を揉み解しながらオーダーを頼む。
「不味くても文句言わんといてな」
真面目にそんな風に言って、忍足は窓際の長テーブルに置いてあったセルフサービスのドリンクバーに向かって行った。
「おまたせー」
「ああ、サン」
一瞬、本気で息が詰まった。
「はじめまして、氷帝の跡部くん」
夕方見たオレンジが、湯気のたっているコーヒーを2つ持って立っていた。
「ああでも俺は知ってたんだよね、名前も顔も、大会で見たことあったし、はいコーヒー」
眉を顰めていぶかしむ俺とは対照的に、その男はにこにこと笑いながら俺の前にコーヒーを置くと正面の椅子をひいた。
「何で、お前」
「ああ、忍足くんに電話入っちゃって」
だから俺が代理ウェイター、なんて言ってその男は自分のコーヒーにミルクを入れた。ここに居座る気らしい。
「あ、俺山吹の千石清純ね、清純って書いてきよすみだから」
よく回る口に合わせて揺れるオレンジの隙間から柔らかな笑顔が覘いた。露骨に、さっきの映像が頭をよぎってテーブルに乗せてあった左手に力がこもった。
「さっき俺の試合見てたっしょ? 真田くんと」
「あ? よく見えたな」
素直に驚いた。俺が見ていた場所なんてフェンスよりでもない、通路だったのに。
「ああ、俺目ぇいいの」
さらっとそう言うと千石は首を回した。
「それに跡部くん超綺麗だから目立つしねー」
「……キモいなお前」
「ええ? ひどいな、褒めてんだよー?」
笑うどこかに違和感がある、いや笑み自体ではなくて、多分千石そのものに。嘘ではないのに、本当でもない気がした。
「わざとだったんだろ?」
勝手にぺらぺらと話す千石がコーヒーを飲んだ瞬間、視線をあげて訊ねてみた。 ここで言うのはどうかとも少し思ったし、問いかけの形だけどもどっちかといえば、確認だった。コーヒーカップの取っ手に指を掛けたまままだ口はつけていない。
「うん、もちろん」
マドラーで再びコーヒーを混ぜながら千石は予想をかなり上回る速度でそれを認める。とんとん、とそれを淵で鳴らしてからソーサーに寝かせた。あれから気になっていたことは予想から確信になり、そして今それは呆気なく事実になった。
「最初からやってればよかったじゃねえか」
始めて真正面から千石の顔を見た。普通にしていれば悪くはない。そしてオレンジの明るい色にばかり目が言っていたことに今更気づいた。
「あーそれも考えたんだけどね、ちゃんと噂にしてくれるくらいギャラリーほしかったから。でも試合一気に始めたじゃん? だからローゲームにしなきゃいけなくて」
「相当タチ悪いなお前」
にこにこと笑いながら話す内容の狡猾さに眉が自然にひそめられた。そしてこの選抜に呼ばれた人間を、補欠の人間がこうも簡単に倒せるものなのかと疑問になる。
「いけるかは微妙だったんだけどね」
その言葉を聴きながら、俺は脚を組み替えた。
「でも結構名前も知られてて強くなきゃ意味ないしってことでやってみたんだよね、ま、相手が後半焦って自滅してくれちゃった」
ラッキーと笑うオレンジの髪をもう一度見て、それから瞳を見る。付属品はどうあれやり遂げたその様は、強さだと思った。ひっかかっていたものの輪郭が少しだけあらわになってくる。がやがやとまわりの話し声だけが背景になる中、千石はそしてぽつり、と言った。
「ねえ、跡部くんも手塚くんに来てほしかった?」
「ああ」
ほとんど反射のような速さで同意する。広い部屋をできるだけ早く冷やすために強になっているクーラーが何十秒というリズムをとって直接冷風を送ってくる。丁度その瞬間だった。
「あはは、正直者。俺でゴメン」
「思っても無いくせにそういうこと言うんじゃねえ」
「じゃー跡部くんはアンラッキーだったね」
俺があの時見た千石を見て感じた高揚はそれがとても貴重なものだったからだ。
「俺はラッキーだったよ、君にも逢えたしね」
「そうかよ」
それを、俺の本能が分かったんだ。
「忍足くん、遅いねえ、彼女かな」
脈絡も何も無くそういって、カップを取る。手塚の代わりにこの男がなるはずもない。だけど、代わりではなくて、千石としてなら、と。
「さぁな」
俺も同じように目の前に置かれたコーヒーをすすると、乾いた苦味が喉を刺す。獰猛な毒のようだった。