寒い。
白く曇るその息を見つめながら藤代はマフラー代わりにぐるぐるに巻いたタオルに鼻を埋める。
2学期最後の練習が終わって、明日からは冬休みだ。とは言うものの、どうせ毎日部活や選抜の遠征が続くわけで、どっちにしても忙しいのだけれども。
それでも一応締めくくりとしての気持ちはあった。それはおそらく、通知表や、理事長のお言葉、持ち帰ってきた課題から感じるものではない。
もっと大切で、それでもどうしようもないものから感じる、終わり。
「っそいなー」
寮の入り口近くにある管理人の部屋は、もう既にカーテンが閉じている。目の前でちかちかと光る自動販売機ループをもう幾度見ただろうか。暖房の届かない照明玄関からすぐのロビーにある埃っぽいソファ。
待っていると言ったわけでも、待っていろと言われたわけでもないけれど、藤代はもうずっとここに居た。
ああ、寒い。
練習が終わってからすぐにジャージのまま走って帰ってきて一目散に見た彼の下駄箱。そこにあったのは自分の色とラインが違う体育シューズのみで、小さく安堵した。
そしてここに陣取ってから、今に至る。
時刻を知りたかったが、ここに時計はないし携帯も鞄の中なので分からない。部屋に取りに行こうかとも思ったけれど、その間に戻られたんじゃ意味が無い。
練習が終わってからは結構経ったけど、夕飯に向かう足音はまだしてないし、と概算をしながらポケットに突っ込んだ掌を動かした。その動きが思っていたより鈍いことに驚いて、出した時刻に20分プラスする。
出掛けには会わなかった。別に意識したわけじゃなくて時間が合わなかったから。自分にはいつもの通り朝練があったし、朝に弱い彼はいつもより遅くに起きて寮を出たはず。
遅い、と不満ではなく感想としてそう思うと、目を瞑った。
感じたのは、光だった。ひどくゆっくり瞼を開けば蛍光灯の明かりが慣れない眼球を刺す。
そしてゆっくり扉の方へ首を回せば、彼がいた。
「お前、まさかここで寝てたの?」
若干焦ったような、呆れたような声色で放たれたその言葉は寝起きの鼓膜を揺らす。
「おかえりなさい、三上先輩」
俺は瞬きを数回して、笑いもせずに言った。体中の筋肉が動かしずらかったから、そのせいだと思うけれど。目の前にはそれを裏付けるような白い霧が現れる。
「ただいま」
三上先輩の顔にも白い霞がかかった。ローファーを脱いでスリッパに履き替えるまでの仕草がすごく長く感じて、その間にずっとポケットに入れていた掌を出してみる。さっきよりもっとかじかんでしまっていて感覚がなかった。
「ってお前ジャージ? まさか練習終わってずっといたのか」
「あー、はい」
そうか俺は練習終わってからずっといたんだ、なんてことを今更ながら反芻して、間延びした答えを返した。
制服のポケットに両手を突っ込みながら三上先輩が自販機に近づいていく。
「風邪うつすなよ」
「……風邪引くぞ、じゃないんスか」
真正面の自販機に立つ猫背気味の背中を見つめて思う。ああ、この人の背中を見る機会というものはあまりなかったんだ、と。
だから分からなくなってしまうのかもしれない。
でも分からなければ、だめなのだ。
「どうでした」
やっと言えたなあと頭の隅で抱いた感想が響く。目の前の背中は振り返りもせずに、持っていた黄緑の封筒を傾けた。
「合格」
ああ、絶対そうだと思ってた。
「うし、合格祝いになんかオゴれ――――」
身勝手なことを言いながら振り向いた三上先輩の表情が変わる。少し幼く見える、不意打ちのそれから、『先輩』へ。瞳を潰して、しょうがないなあとでもいうように、諦めているように。
「馬鹿……おめでとうございます、とか言えっつーの」
せっかく凍っていたのに、溶けてしまった。一滴だけれど大事な、とてもとても大事な、氷が、美しく溶けてしまった。もう、戻らないのだ、この一滴は。
頬伝うその水は赤いタオルに落ちて、小さな小さな滲みを作った。それが紛れもない証拠。
「サッカーしてろ、お前」
どれくらい時間がたったのか分からないけれど、かなりの沈黙のあとで俺の隣に座った三上先輩は静かにそう言った。
「なんスかいきなり、いやしますけど」
俺もつられて静かに口を開く。顔を向ければ三上先輩は天井を仰いだままで、なんとなく損をした気分になった。
「切れかけてんな―――――――別に、すぐ見つかると思って」
楽でいいだろ、とぽつりと付け足す。俺もソファに更にもたれて、ひどく動物的な音で鳴く蛍光灯を1本見つけた。
「先輩も、しててよ」
「当たり前」
「つか、無精っスね、ほんとに」
ひとつ小さく呼吸をして何度目になるか分からない白を作る。
「ね、先輩。なんか奢って」
「ああ?」
「俺ずーっと、ずーっと待ってたんスよ、あー寒いー、死ぬー」
そう言ってにっこり笑ってみれば、眉を思いっきりひそめた三上先輩が小さく舌打をして立ち上がる。俺もポケットの中の一番大きな硬貨を探りながらその後に続いた。
「どれ」
「コンポタ」
120のデジタル数字が赤く付いている自販機を一通り眺めてからそう言うと、三上先輩がボタンを押す。ガシャン、という音がした。
俺はそれを拾わずに、ゼロになってしまったランプを500にする。
「は?」
何も聞かずに、先輩がいつも飲んでいるメーカーの、前にちょっともらったけど全然美味しくなかったブラックコーヒーのボタンを押す。もう一度音がする。
「ありえないけど俺がサッカーして無かったらどうすんすか」
お釣のレバーを下げてから、しゃがんで取り出し口に手を突っ込んだ。音が鳴り止んでからお釣りのところにも同じようにして。
「ありえないなさすぎて考えたことねえな――――――お前それ生きてけるのか」
真顔で返されたら即答できない。考えたこともなかったのは俺も同じだったけれど。
「だけど、まあ、分かる」
ほら、絶対そう言うと思った。
立ち上がって、向き直る。コンポタとコーヒーの缶が手のひらを焼くようだ。ああ、熱い。笑って差し出したのは、もちろん自分じゃ飲めないブラックコーヒー。