褒められないやり方

「このパターンは先に補助線引いとけ、そしたらこっち計算するだけで答え出るだろ」
「え、でもそうすると教科書のやつと違くないすか」
「あー……」
意地の悪いかたちをした図形の表面積を求めていたシャープペンシルを止めて、向かいの京介が顔をあげる。出水はテーブルのうえの教科書を1ページめくってから太字になっている公式を指さした。
「さっきのでも解けるけど結局これに集約されんだよ、さっきのは基本すぎて中間には出ねーからこっち覚えとく方が使える」
「了解です」
ひとつ下の後輩は素直に頷き、書きかけていた数式を消すと再び課題のプリントに向き合った。
数学きいていいすか、と京介に言われたときは内心すこし焦ったけれど、出席代わりの課題が終わればいいとのことだったので出水は受けてやることにした。根拠だとか理屈だとかの部分をうまく答えられる自信はないけども、とりあえずこうすれば答えは出る、程度の乱暴な解説でいいのならやれないことはない。
「てか今更だけど補修やってくれんじゃん、出ねーの?」
自分も何度か世話になった母校の仕組みをあげれば、京介はノートに視線をおとしたまま「あれって朝か放課後じゃないすか、時間あけられなくて」と答えた。
「ほー」
5月になり、まもなく中間試験ということもあってボーダー本部のラウンジは勉強道具をひろげている学生が多い。烏丸と出水もその一組だった。とはいえ高校の方は試験までまだ3週間近く余裕があって、この時期の試験は高1の出水たちより中3の烏丸たちの方が範囲がひろく対策が大変そうだった。
売店で買ったスナック菓子をつまみながら、1年前の自分の数学は何点だったっけ、と記憶をたどる。多分80点とかそのあたり。悪くはないけどとり立てて優秀というほどではない、いつも通りの平均のすこし上くらいだった気がする。
「おまえらここいんのめずらしいな」
すこし癖のある低い声に出水と烏丸がそろって顔をあげると、トレイにうどんをのせた隊長の姿があった。隊服のシンボルであるロングコートを着ておらず、上はくすみがかった赤色のトップス一枚という出で立ちだった。
「おつかれさまです、それ夏用すか」
「おう。国近にとりあえずコート無しのやつ作ってもらった。お前ら何してんだ?」
太刀川さんは京介の隣の席にトレイを置いて椅子をひいた。湯気とともにうどんの出汁の匂いがふわりと香る。
「学校の課題です、休んだ分溜まってて」
「マジかよえらいな」
「太刀川さん、メシこれからなんすか?」
「遅めの昼っつーか早めの夜っつーか。出水も課題やってんの?」
「おれはまぁ、雰囲気だけ」
手元では英語の教科書とノートを開いているものの、書き写せば終わる作業のようなものだ。おれはあんまり人が多いところだとどうにも集中できない。
「解けました」
「ん」
京介からプリントを受け取り、上から順に途中式含めて確認していく。最後の問題だけはあらかじめ英語のノートの端っこに解いておいた自分の答えと見比べて確認した。
「オッケー、あってんじゃね」
「あざす」
ちいさく息をついた京介に、食べていたじゃがいものスナック菓子を差し出してやる。京介は一本引き抜いて、これ梅味あったんですね、とか言いながら先っぽをかじった。
「期間限定だってよ」
「うまいっす。……水とってきます、出水先輩いりますか」
「あー、さんきゅ」
空の紙コップをもって給水機へ向かった京介が、さっそくC級の女の子に呼び止められた。イケメンは歩くとファンにあたる。太刀川さんがしれっと座った京介の隣の席だって、実は何人もから視線を注がれていたスペシャルシートなのだ。結局誰も座りはしなかったので本人はまったく気づいてなさそうだったけど、壁側に座っていた出水からは遠慮も牽制もよく見えた。
「あいつずいぶんカワイイの使ってんだな」
「それ妹ちゃんが付録かなんかくれたらしーっすよ」
ノートのうえに置いて行った京介の使っているシャープペンシルはまるっこい犬のキャラクターがプリントされている。「ずいぶんカワイイ」それを京介が使い始めた頃、1日に5回「烏丸くんああいうの好きなの?」と聞かれたものだと佐鳥が嘆いていたのを思い出した。
「はは。さすが兄ちゃん」
「……太刀川さんて兄弟いんの?」
「俺? いないよ」
「……へえ」
深く考えずに尋ねてみたものの、太刀川から返ってきた答えをもてあましてしまう。それはそうだ。それっぽいですね、とも、意外ですね、とも言えない。太刀川のところに属してそこそこ経ちはしたものの、話すことといえば、任務やランク戦のことばかりで、年齢もポジションも入隊時期も違うこの隊長のプライベートなことを出水はほとんど知らないままだ。
「出水は?」
「うちは上にひとり」
「姉ちゃんだろ」
「え、なんでわかんの」
太刀川さんは歌うように「なんとなく」とだけ言ってうどんをすすった。根拠があったのか、ただの偶然なのか、こういうときが本当に腹の底がわからない。
「目のしたにまつげついてるぞ」
「へ?」
太刀川さんが箸を持ったまま、自分の右目の下あたりをちょんと指さす。右頬のあたりをはらってみせるが、ゆるく首をふられる。
「ちがう、反対」
「とれました?」
逆の頬をこすってから再び太刀川さんを見るけれど「まだついてる」と返された。
「出水先輩何やってるんですか? ねこのモノマネ?」
「なんだそれちげぇわ、顔なんかついてんだって」
戻ってくるなりとぼけたコメントを寄越してきた京介がおれの顔をじっと見つめて、あぁ、と納得したように頷いた。もういいやと早々にあきらめ、目をつむってテーブルに身を乗り出す。
「とって」
そう言うと、京介はすぐに指でまつげを払ってくれた。
「さんきゅ」
「そういや高校ってテストより体育祭が先なんすね」
「あー、そうみたいだな」
努めて軽く相槌をうってから出水は京介がくんできてくれた水を飲んだ。
「そういや体育祭って今年もあの変なカッコして走るやつあんの?」
「仮装リレーすか? あるっぽいですよ、嵐山さんと迅さんがなんか双子っぽいやつで走るって聞きました」
体育祭。今は試験なんかよりよっぽどこちらの方が問題だった。

次の日、遅番の任務を控えていた出水は学校が終わるとボーダー本部に直行した。はじめはいつもの連絡通路から最短ルートで隊室を目指していたのだけれど、あまりに喉が渇くので自販機に立ち寄って飲み物を確保したかった。
くそ暑い。汗気持ち悪ぃ。これもう完全に未成年虐待。
本日の三門市は5月にしてはめずらしく夏みたいな暑さと海みたいな湿度だった。そんな天気のなか1週間後に迫った体育祭に合わせて5限は応援合戦の学年練習、6限は体育でリレー練習という地獄の昼下がりを越えて今にいたっているのだ。火照りの冷めない身体の内側で悪態をつくくらいは許されたい。
体育祭自体は別にいい。中学より自由度があがった行事は楽しいし、非日常感は新鮮だ。だがどいつもこいつも防衛隊員だからといって運動神経がいいと思わないでほしい。多様性を認めやがれこのやろう。高校生活がはじまってまだ2ヶ月弱、クラスメイトの人となりも曖昧なままに行われた種目決めで、出水はボーダーだからという理由で選抜リレー走者に推薦され、そのまま走ることが決まってしまった。なんとか一番手とアンカーは回避し、第三走者を勝ち取ったものの、噂では同じ出番に嵐山さんと三輪がいるらしく、よりによってと現在進行形で頭を抱えている。
柚宇さんジャージのトリオン体作ってくんねえかな。いやほんとマジで。
「はぁ……」
ため息とともにたどり着いた自販機に小銭を入れた。横目でうかがった模擬戦ブースは、それなりに人気がありそうなのに、いつもより静かな感じがする。手癖でいつもの炭酸飲料を選びかけ、ああ違うと左上のスポーツドリンクのボタンを押す。がしゃんという大げさな音が廊下にひびき、それを回収しようと屈んだら太もものあたりがずきんと痛んだ。絶対に筋肉痛だ。ああもうくそ最悪。
鈍痛を我慢しながら立ち上がれば、なにかが嫌な速度で鼻の粘膜を濡らしていく。ぬるりとした覚えのある感覚に「最悪」が更新されたことを一瞬で理解した。
「っ、」
ペットボトルを放り出す。肩にかけていたカバンが滑って衝撃が肘にかかった。鼻を覆うように右手を添え、もう一方の手を皿のようにして鼻からしたたる血を受け止めた。しずくがひとつ、ふたつと溜まり、案の定手のひらを赤く染めていく。遠く、ペットボトルが床を転がっていく音がする。最悪。最悪。最悪。
「ーーーー出水?」
名前を呼ばれ、振り返った先にいたのは太刀川と月見だった。とっさに同級生や年下じゃなくてよかったとほっとして、安い見栄をはる自分に嫌気がさした。顔をそらした反動で鼻を抑えていた指の股から血液が垂れていく。制服を汚してしまう。そう覚悟した瞬間に、剣だこのある人差し指が赤い線を堰き止めるように出水の手に添えられた。
「っ、ちかわさ、ついちゃ、」
「いいよ」
「出水くん、血の出ている方の鼻の付け根を押さえましょう」
月見の髪が揺れた瞬間、鉄くさい匂いに混じって花のそれがかすかに香った。彼女の言葉に従って右の鼻の付け根をつまむ。手のひらについた血液がまた手首をつたってシャツの袖口を汚しそうになると、太刀川はもう一度その雫を指の腹で丁寧にぬぐった。
いつのまにか用意されたティッシュペーパーで両手をこすられ、バッグを渡すようにうながされる。
「すんません、ありがとうございます」
近くのベンチに座らせてもらいながら濁った鼻声で礼を言えば、太刀川さんは「医務室行くか?」と言った。「ブース行くか?」のときとまったく同じトーンに聴こえたせいで、なんだか妙に気が抜けていく。
「いや、大丈夫っす」
「鼻血って上向かなくていいんだっけ」
「押さえるだけでいいのよ、上を向くと血が逆流してしまうから」
「あぁ忍田さんもそんなこと言ってたな」
「止まらないようならやっぱり医務室の方がいいと思うけど、どう?」
出水はもう一度首をちいさく横にふった。
「マジで平気です。なんかおれ昔からのぼせやすくて、たまになるんすよね、でもいつもすぐ止まるから」
「いきなり暑くなったし、今日は湿度も高かったものね」
「そうなのか?」
「太刀川くん外に出てないでしょう。また本部に泊まったの?」
そういえばこの2人って幼馴染なんだっけ。出水は太刀川に月見を紹介されたときのことをうっすら思い出した。気安く続くやりとりをラジオのように聞きながら、そこでようやく出水は息をついた。
「仮眠室のひとつが太刀川くん専用になってるって職員さんが嘆いてたわよ」
「? ちゃんと予約して使ってるぞ」
「一週間は仮眠って言わないの」
止血できた気がして、おそるおそる鼻を押さえていた指先のちからを弱めてみる。すこし経っても鼻の奥から生暖かい液体がせりあがるあの独特の感触はない。
「あの、止まったぽいっす」
完全に手を離せば、月見と太刀川の視線がついっと顔の中心に注がれる。汚れているであろう顔を真剣に見つめられるのはちょっと気まずい。
「ほんとね、よかったわ」
「お騒がせしました、ティッシュとかありがとうございます。おれ手と顔洗ってきます、太刀川さんも行きましょ」
まわりを触って汚さないように気をつけながらベンチから腰を浮かす。
「お大事にね」
蓮さんはいつのまにか拾ってくれたらしいペットボトルを太刀川さんの汚れていない方の手に渡してから、隊室が並ぶフロアへと向かっていった。
「あ、かばん持ちます、すんません」
「いいよ、お前両手汚れてんだろ」
おれの荷物を持ったまま太刀川さんは廊下を歩きだした。言葉に甘えてそのあとをついていく。
「でもこれ重すぎないか? なに入ってんの」
「普通に課題とかジャージとか、なんかいろいろ?」
重いという言葉で、太刀川さんが生身だということに今更気づいた。顔を合わせるときはいつもどちらかが換装していることが多いから、お互いトリオン体じゃないのはめずらしい。というか、はじめてかもしれない。白いシャツの袖口からのびている太刀川さんの右手。その人差し指の腹がおれのせいで汚れている。
「あの」
「ん?」
「すんません。手、生身だったのに」
「洗えば落ちるだろ。いいよ」
それは今日何度目の「いいよ」だろうか。ひどく言いなれている口ぶりだと思った。この許容が優しさなのか、無関心さゆえかは分からないけれど、こんなことじゃきっとこの人からはなにも奪えないんだろう。
太刀川さんて許せないことあんのかな、いやそりゃあるか。でも友達とかカノジョとかと喧嘩してるとことか想像つかねーな。
前を歩く背中を、骨ばった肩を、ゆるい癖のある髪がかかった襟足を見つめながら、生まれたての好奇心がふくらんでとりとめのない思考がめぐっていく。ボーダーの外のことは知らないけれど、目立つわりに親しみやすい彼のまわりには人が絶えない。それでも同じくらいひとりが似合う人だ。隊を組んだ今でも出水はそう思っている。
突き当たりのトイレは無人だった。ボーダーのトイレは公立学校の設備よりも大分ひろくてきれいな作りをしていて、手洗い場の前の壁は全部鏡面だし水道は非接触のセンサー式になっている。出水はカウンターに置いてもらったカバンからフェイスタオルを引っ張り出して首にかけると蛇口に両手をかざした。ハンドソープを使って丁寧に両手をこすって洗い流せば肌についた血液は次第に薄くなる。
ほっとしながら改めて顔を上げれば、鏡に映った自分の顔にはまだ血のあとが残っている。はじめに変にこすってしまったせいで鼻のしたから頬と唇のあたりまであちこちに血が伸びてひどいことになっていた。
「うわダッサ……」
「ははは、早く洗っちまえ」
思わずこぼしたつぶやきは苦笑交じりに拾われる。汚れを落としたばかりの手のひらを皿にして、髪が濡れることもいとわず思い切り顔を洗った。鼻のまわりを特によくこすってから顔をあげる。
「ふう」
肩にかけていたタオルで顔をぬぐいつつ、隣の太刀川さんを鏡ごしに見る。瞬間思わず声をあげた。
「待ってそれ血ぃついてない?」
太刀川のシャツの胸元、ボタンの合わせの部分。そこにちいさな点がある。思わず彼のシャツに手を伸ばし、その一点をよくよく注視した。
「っ、やっぱついて、……あ、違うこれゴミっつーか、……ごま?」
「ああ、そういやさっきゴマ団子食ったな」
指先ではらえば、その黒点はあっけなくどこかに消えた。
「はー、びびったぁ……っ」
てっきりぬぐってくれたときに血が跳ねてしまったのかと思った。おれの焦りをよそに太刀川さんは他人事のように「うん」とだけ言ってカウンターに濡れたままの左手をおいた。二の腕の内側がじゅわっと熱くなる。それが太刀川の体温のせいだと分かったときにはもう出水の身体は洗面台と太刀川に挟まれていた。
「おれ、血、ついたかとおもって」
「ついてても別にいいけどな」
腰骨がカウンターのふちにあたる。とりあえず太刀川さんのシャツを掴んでいた両手は離したものの、その手をどこにおさめればいいのか分からない。なにがしたいの。そう尋ねるつもりで太刀川さんを見上げると、彼の右手がゆっくりと顔に触れようとして、けれどその寸前でぴたりと止まった。
「なぁ、俺も触っていいか」
「え?」
律儀かつ想定外の問いかけに出水の脳はフリーズする。さっき触ったじゃん。俺もってなに。なんで聞くの。てか前も触ってなかったっけ。あれ? ちがう? だめだどうだったか分かんねえ。
返事ができないおれをどういうふうに解釈したのか、太刀川さんは「国近と京介には言わないから」とよくわからない条件を出した。いやなにを。そうおれが問いかけるより先に更に太刀川さんは「蓮にも口止めしとく」と付け足してきて、そこでおれはようやく鼻血のことかと思い当たった。そんな交渉をする発想はなかったけど、悪い話じゃない。直感的にそう思って頷いた。あんな安物の見栄を、もう一度張れるだなんてラッキーだ。
「いいっすよ」
頬骨を撫でられ、あごをすくわれる。洗いたての冷えた肌を太刀川さんの手が湿らせていく。夏の午後の雨みたいだ。親指が上唇の山をたどるように何度も行き来する。
「ついてる」
「血?」
「そう、とれた」
「ありがとうございます、太刀川さん手ぇでかいね」
「お前の顔がちっこいんじゃないの。つーか1日でずいぶん焼けたな」
「午後ずっと外いたから」
またあごを持ち上げられ、指先の動きに合わせて素直に首を振る。まるで病院で診察でもされているようだ。太刀川さんはなんだか満足げで、でもずっと真剣で、変な人だなと思ったらおれも楽しくなってきた。
「なに笑ってんだよ」
「えーいやなんか、太刀川さんておもしれえなって」
仕上げとでもいうように首にかけていたタオルで乱暴にぬぐわれて、「おしまい」と太刀川さんの指と身体が離れていった。出水は振り返って鏡を見る。そこにはまるでいたずらを上手に隠した子供のように笑うふたりが映っていた。

END