鍵と網にありがとう

「え」

最後の階段を踏むはずだった俺の右足裏は、今はどこにも接していない。上半身が重力に従いゆっくりと傾いで、左足がそれを支えきれなくなったとき、俺は科学の教科書とノートと、ペンケースを捨てた。とっさに伸ばした反対の腕は、―――――手すりには届かない。どうしたって。
あ、俺、落ちる。
「水谷ッ!!」
のんきにそう思った瞬間、聞きなれた声で鼓膜が揺れた。俺は必死に視界の端に彼を捉える。
うわ、阿部の顔、超怖い。いやでもこれは俺悪くないよ、あんな当たり方されたらみんなこうなるって。ね、だから、そんな顔しないでよ。
伸ばされる腕。ああ、届かない。
阿部の中指の爪が、落下していく俺の小指を掻いた。

振り返った瞬間、傾いだ水谷はすぐに手すりに手を伸ばしていた。背筋は冷えたが、大丈夫だと、間に合うと、思った。――――それなのに!!
その男は、あろうことか手すりに伸ばしかけた左腕を止めたのだ。冷えたなんてもんじゃない、血が凍りついた。
落ちていく水谷と視線が合う。
あ、阿部居たの?とでも言いそうな、いつもの呆けた顔だった。
ふざけんなよ!
今から出す俺の手が、もう床から足離れてるお前に届くわけがねえだろうが!

階段の踊り場を抜けて、花井は無意識に顔をあげた。
だから、そう、俺には全部見えていた。

首筋をほぐしながら歩く阿部も、それに半歩遅れる形で階段を上っていた水谷も。
走ってきた大柄な上級生(あれは多分3年だ)がでかい世界地図を持っていたことも。
その上級生の持っていた世界地図の先が、水谷の肩から胸に払いかける形で入ったことも。
それでも水谷は反対側にある手すりに向かって、必死に腕を伸ばそうとしたことも。
手すりと水谷の間に、小柄な女子が居たことも。
水谷が伸ばすのを止めた手を、阿部が必死に掴もうとしたことも。

俺は、全部、見えてたよ。

「水谷くんッ!!!」

隣を歩いていた篠岡の悲痛な声を聞きながら、俺は持っていたもの全てを放り出して、階段に足をかけた。軽いふらつきならまだしも、全身で落ちてくる60キロ近い男をこんな足場で完全に抱き止められるわけがない。

―――――――でも、だって、俺は全部見てたんだから。

左手で手すりを強く握って。跳ね飛ばすくらいの勢いで自分から水谷の身体にぶつかった。それでも予想より大きい衝撃に、必死に必死に、支えの左手に力を込める。
視界を水谷の背中で塞がれて、痣ができたであろう二の腕の痛みと、教科書やらペンやらが落ちる音しか分からない。 分からないけど、自分のではない体温を腕の中に感じて、息を吐く。

「よかった…っ」

篠岡の震えた声に、安堵して目を開ける。瞬間視線が合った階上のキャッチャーに、もっと安心して。

「は、ない、ありがと」

あのぶつかった上級生にも鬼みたいな顔してる阿部にも言いたい事あるけど、とりあえずは言わせて欲しい。

「あー……ほんっと、よかった…!!」