「あれ、先輩」
障子を閉めなかった俺を誰か褒めてくれ。
店で一番人気の奥まった個室には、色んな意味で見慣れた男が座っていた。わざわざ予約でここを取れるかどうか尋ねてくる客もいるくらいだから、飛び込みでこの席に案内されたのはどんなラッキー野朗かと思っていた、のに。
「お前かよ……!」
なにが? と言いたげな瞳を向けられて、三上は隠しもせずに息を吐いた。
試験期間がようやく終わったところに珍しくバイトのヘルプを頼まれて、その割りに客数は少なくて、いつもキッチンだったのに珍しくホールに回されて、障子を開けたら日本代表。
ああもう何なんだよこの仕打ち。
「あー……ありがとうございましたお帰りはあちらになりますお客様」
「ちょちょちょ、俺今来たとこです! え、てゆか先輩、試験期間じゃないの? バイトする暇あったなら俺と遊んでよ」
「今日終わったんだよ、バイトは頼まれたの、お前だって明日でいいって言ったろ」
持ってきた水入りのグラスとおしぼりを手渡しながら、不満げに口を尖らせる元後輩の言葉を三上は軽く流した。 背番号を背負わない藤代を見るのは多分2週間ぶりくらいだ。
「つーか何でよりにもよってお前が……え、何、お前1人?」
「あ、連れ、っていうか水野とタクなんスけどね、なんか2人とも遅れるって言ってて、腹減ったしどうせなら呑んで待ってよっかなって」
「おい勘弁しろよ、クーポンやるから今から違う店行け……」
「ヤダー」
要望が適えられるはずもないことくらい分かっていたけれど、予想通りの笑顔と返答に改めて溜息を吐いた。仕方ない、もうすぐ自分は休憩のはずだしその後はキッチンに回してもらおう、と思考を巡らせて、サロンのポケットからハンディターミナルを取り出すと三上は座席番号を打ち込んだ。
「なに、生?」
アルコール画面の生ビールのボタンに指を滑らせようとしたところで、透明なカクテルの名前を見つける。そうだ、自分は炭酸の酒はあまり好きではないけれど、この男が好みそうな味だ、と試飲した時に思ったのだ。
「あ、スカイナインティのソーダあるけど」
「ねーせんぱい、接客業でそういう態度ってどうなの?」
どうする、と尋ねた言葉は最後まで紡げなかった。
見つめてくる藤代は無表情で。だが、目の奥がひどく楽しそうなのは隠せていない。意図するところがわかった瞬間、この野朗、と出かかった言葉を喉奥で殺した。
「し・つ・れ・い・し・ま・し・た。ご注文伺います何になさいますか世界の藤代様」
「わー、なんかいいなー」
当て付けでそう言えば、さっきのわざとらしい無表情とは違う、素の顔になった藤代が独り言のようにそう零した。
「あ?」
「先輩に敬語使われるのすごい新鮮、なんかいい気分」
「あはははは冗談も大概にしねえとその頭カチ割りますよ」
「口悪いなぁもう」
嗜めるみたいな苦笑いがむかつくと思った瞬間、当たり前みたいな自然さでぐいと腕を引き寄せられる。傾いだ身体を支えようととっさに反対側の腕を突いた。
「ちょ、あぶね」
批判する為に開いた口を、藤代のそれで塞がれた。
「―――ッ止めろバカ」
「止めて下さい、でしょ?」
人差し指でほのかに濡れた唇をなぞられて、背中をぞくりと覚えのあるものが走る。
―――ピピピ、ピピピ、ピピピ。
「あれ、鳴ってる」
藤代が上着のポケットから携帯電話を取り出すと、初期設定そのままであろう電子音が少し大きくなった。
あやうく凶器にしかけたハンディターミナルを握り直し、苛つきを堪えてもう幾度目か分からない溜息をつく。ふと視線をフロアの方へ巡らせればマネージャーが自分に向かって口をはくはくと動かしているのが分かった。
「もしもし、タク?」
外すぞ、と乱暴に視線だけ送れば、藤代はへらりと笑いながら小さく掌を上げて応えて。座席番号を削除して、機械をポケットへと戻すと早足で彼の元へ向かう。小さく舌打したのは許してほしい。
「三上!」
「なんですか?」
「お前、あの席座ってんのヴェルディの藤代だろ? 何!お前知り合いなの!?」
「あー…いや、知り合いっていうか、高校んときの後輩で」
「まじで!?」
視線を逸らして、言葉尻を濁すものの、やばいこの人サッカー好きなんだった、と思った時にはもう遅く、マネージャーは興奮した様子で三上の肩を力強く掴んだ。
「え、なに、なんですか!?」
「サインほしい」
「はぁ!? あ、あいつの…?」
ぶんぶんと大きく3回頷かれて、嫌な展開と予感しかしない。ああもう逃げたい、と心底思った瞬間、彼の視線が動いた。
「ふ、藤代誠二…!!」
「あー、どーも」
「お前……っ!」
振り返れば、いつのまにか背後に立っていた藤代が人懐こく笑っていた。なんとなくであったはずの嫌な予感は、どんどんと確信に変わって。
「三上先輩ってあとどれくらいで仕事終わりですか?」
「え? あ、あぁ、三上、は10時までだっけ?」
「サインに写真も付けるんで、三上先輩早く上げてくれたりしませんか?」
「三上、今日は本当にありがとうな、1.5で手当て付けとくからお前もう上がれ」
「ちょ、マネージャー!?」
急展開についていけず、だがここに自分の味方がいないことは本能で分かった。いや手当ては嬉しい、嬉しいけれども。
カメラを取ってくる、と社員室へと小走りで向かったマネージャーの後ろ姿を見送りながら、呆然とする三上の横で藤代は至極楽しそうに口を開いた。
「いやぁいい人ですねえ」
「ほんっと、お前って」
呆れ半分諦め半分でもう勝手にしてくれと肩を落とすと、連日の睡眠不足を一気に実感する。あぁやっぱり身体が重い。
「ねえねえ店員さん」
「なんですかお客様」
「タクと水野ね、電車が事故で止まっちゃってんだって」
「あぁそうですか大変ですね」
「だから、今日はナシになったんだけどー」
目頭を軽く押してほぐしながら、2、3度瞬きを繰り返す。あぁもうなんかどっと疲れてきた。今すぐ布団にダイブしたい。
「さっきの何だっけ、先輩が言ってたやつ」
「は?」
「カクテル、なんとかナインティ」
「スカイナインティ?」
それがどうした、と若干高い位置の瞳を覗けば、可愛らしく首を傾げられて。
「それ飲んで待ってるから、早く着替えてきてよ、で、お祝いしよう」
誕生日、とさらりと付け加えると藤代は花が咲くみたいに笑った。