そして至上の無色透明

「終わった」
ぼさぼさの頭を掻きながら三上は静かに呟いた。
作っているレポートは次の発表は乗り越えられるだろう、というところまで進んだものの、最終的な終わりの見えなさにはいっそ笑いたい。またこれから教授にダメ出しをされるかと思うと、もう溜息も吐く気になれなかったが、とりあえず一区切りは付いた。
「うあー」
背骨を鳴らしながらゆっくりと伸びをする。そのまま肩、腕、首、と武蔵森時代から習慣になっている順番で身体をほぐしてからベッドへ倒れこんだ。連日のテストやレポートで睡眠不足の身体は、縫いとめられたかのようにシーツに沈み込んで動かせない。
もうこのまま眠ってしまおう、と思った瞬間ふいにパソコンの隣に置いていたアイピローのひつじが目に入った。
ああ、畜生、と心で毒づく。
「これもうぜってぇ寝てんだろ」
深く深く息を吐くと、三上は力を振り絞りベッドから立ち上がった。
静かにリビングのドアを開けば、テレビで胡散臭そうな外国人2人が胡散臭そうな商品を大げさに褒めちぎっているところだった。どう考えても、そのご立派な逆三角形の体型に脂肪燃焼グローブは不必要だろう、と思いながら、正面のソファに座っている藤代をそうっと覗き込む。
「何が起きてます、だ」
藤代はソファで静かに寝息を立てていた。あれから3時間も待たせていたのだから当たり前と言えば当たり前だが。
三上は目だけでリモコンを探すと、ソファの肘置きから伸びている藤代の手のすぐ下に落ちているのを見つけた。昨日(もう一昨日になるのだが)ハットトリックを決めたJリーガーを起こさないようにそうっと寄って、拾い上げたそれをテレビに向けて、スイッチを切った。
瞬間、藤代と自分が居るという空気が、風船が破裂したかのように一瞬で部屋いっぱいに広がる。
心地良い、と柄にもなく思った。
「ニョキニョキ伸びやがって……」
身長はもちろん、今ではもう張り合う気も起きないくらいにスポーツ選手として成長した藤代を一介の大学生が運べるわけがない。
三上は溜息をひとつ吐くと静かに自室に戻った。
ベッドから毛布を引き抜く。それを肩に抱えている間に目に付いたタンブラーも左手で掴むとすぐに部屋を出る。
台所の流しにタンブラーを置いてから、小さく口を開けて眠る藤代に自分の毛布を掛けてやる。憎らしいくらいすくすくと育ったこの男をすっぽりと包むことは元から諦めているが、出来る限り首元までひっぱり上げてやった。
規則正しい藤代の寝息を手の甲で感じ、それをとても愛しく思った瞬間だった。
「終わった?」
声と同時に、自然にゆっくりと藤代のまぶたが持ち上がり現れた瞳が三上を捉える。
「起きてたのか」
「ぼんやり」
大きな欠伸をしながら藤代は立ち上がる。そしてぐいと伸びをしてから、肩、腕、首と、先ほどの自分と同じように身体を伸ばす。お前らシンクロし過ぎ、と中西に笑われたのは高校時代だったか。
「悪かったな」
「ん、おつかれさまっすー」
目を擦る幼い仕草をする藤代の頬に軽く触れる。指が冷たかったのか、藤代は一瞬びくりと肩を揺らす。
「お前、起きたならちゃんと部屋で寝ろ」
言いながら電気の紐を引いて灯りを消した。
「やだ」
「っ!」
言うが早いか、藤代は三上の腰を抱きこみつつ床に腰を落とした。そして、そのまま唇を重ねる。ちゅ、と口付けらしい音が静寂に響いた。
「だからなんでテメェはいつもいつも……」
「先輩はー途中で充電したけどー、俺はもう電池切れちゃったんスよー」
抱き締められて胸板に付いた耳が確かに藤代の鼓動を感じている。
「床じゃ痛い」
「やんないって」
笑いながら藤代はカーペットの上に三上の毛布を引っ張ると自分と三上を巻き込むようにして横になった。簀巻きのような格好になりながら、さらに藤代は三上を抱き締める。
「寝てから、やろ」
「朝から?」
「朝から」
もう一度いたずらっぽく笑って、藤代はそのまま目を閉じる。
三上も静かに目を閉じた。藤代の匂いを感じ藤代の心臓の音を聴きながら朝を待つのは悪くないと思った。