答え合わせ

「あ」
忘れてた、と続く声にシャーペンを動かす手を止めた。無意識に視線を左隣に向けると、憎らしいくらいスラスラと数学の問題集にマルを付けていたはずの阿部が床に置いていたエナメルバッグを引き寄せているところだった。
「なに、どしたの」
「ん…ちょっと、待て」
5時を過ぎた図書室に人は少なく、使っているテーブルには俺たちしか居ないと言っても一応気を遣って小声で話し掛ける。すると阿部はフロントポケットのジッパーを開けてそう答えた。
似合わないとよく言われるが俺は図書室の空気は嫌いじゃない。その空気を壊さないように大きく伸びをすると阿部の言葉に従って待つことにした。自分が何を待っているのかは無論知らないのだけど。
「おい、手出せ」
「て?」
言われるままに左手を差し出せば、ピンクの正方形が降りてきた。
本当は高さ20センチのところから阿部によって落とされたと言うのが正しいのだけど、まるで俺の手のひら以外着地する場所がないとでも言うように、それは当然の如く降りてきたのだ。
ぴかぴかのメタルピンクの包み紙には見覚えがある。中に包まれているのは濃いピンク色したチョコのはずだ。以前買って大絶賛していた商品だから、間違いない。
そんなチョコレートを阿部が俺の手のひらに着地させた。ただ、落としたんじゃなくて、俺の手のひら以外に落ちないようなそんな不思議な落とし方をしたのだ。
だから、俺はついその不思議なピンクの物体目がそらせなくなった。
「……水谷?」
訝しんだ阿部の目つきが険しくなる。別に怒っているわけではないと、自分はもう知っている。「あ、うん、ごめん」
俺に言わせれば、阿部からチョコレートというだけでも不思議なのに落とし方まで不思議だったのだから反射速度が遅くなるくらい仕方ないことのように思えたが、それは言わないでおいいた。上手く説明できないし、怒らせてしまいそうな気もしたので。
俺が怒られて阿部が怒ってという流れは人前での俺たちのコミュニケーションの基本形だし、そういうやりとりを俺も多分阿部も結構気に入っている。
だけど、今はそうやって騒ぐことも勿体無いことみたいに感じたので、俺は静かに阿部に分かりきったことを訊ねてみた。
「これ、チョコだよね?」
「お前好きだろ」
「え、うん、好き」
いつもと変わらない無表情で無愛想な阿部。その言葉に俺が大きく頷くと、満足したらしい彼は、小さくよし、と呟いた。
「じゃあやる」
「へ」
何がじゃあなのかよく分からなかった俺は目の前の仏頂面した阿部と手のひらを交互に見やってから、ようやく状況を理解した。そうか。阿部が俺にチョコくれたんだ。
「食わねえの?」
そんなことをゆっくり考えていると、頬杖を付いてこちらを見ていた阿部が不思議そうにそう言った。
「あ、ううん、食べる食べる」
阿部の言葉をイコール食べろ、と解釈し包み紙を開く。一瞬、壁に貼られた「飲食厳禁」のポスターが視界の隅に入り逡巡したが、手は止めなかった。ごめんなさい。ちょっと今日だけ、と心で言い訳しながら光沢のあるそれを剥いていく。出てきたのはやっぱり俺のお気に入りシリーズに仲間入りしたイチゴのチョコレートだ。それをすぐに口の中へ放る。濃厚な甘酸っぱさが口いっぱいに広がって、自然と顔がほころんだ。
おいしいよ、ありがとう、と言うつもりだった。なのにそれは、目の奥で小さく笑った阿部と自身の心臓に遮られる。柔らかい。可愛らしい。そしてすごく優しい。普段の阿部とかけ離れている形容詞をいくつも並べて表現できるその笑顔は、まるでとても大切なものを見るような表情だった。
好きで好きで仕方ないようなものを見る為だけの、きっと、すごく、特別の。
そこまで考えて、ようやく俺は阿部が見ているのが俺だということに気付く。そして、同時に至った予想と想像と推測に全身がかぁっと熱くなった。
────えっと、だって、それって?
「うまい?」
「…う、ん…おい、しい」
どこかのピッチャーのような喋り方になってしまったのを、含んでいるチョコのせいにしたくて、わざと片方の頬を派手に膨らませる。舌には溶けかけのとろりとした感触はするのに、今までしていた過ぎるほどの甘酸っぱさが途端に分からない。
「あの、さ、阿部」
長いのか短いのか分からない間があって、俺はようやく口を開く。鳴り続ける心臓は、この静かな図書室にはうるさすぎて、苦情が来るのではないかと思うくらいだった。
そんな中で、俺は勇気を振り絞る。口角はいつもくらいに上がっているだろうかとそればかりが気がかりで、チョコレートのなくなった口の中はからからで不思議な感じだ。
「阿部って、甘いもの自分で買わない、よね?」
「そうだな」
「しかもこれ結構値段張るし、置いてる店少ない、よ、ね?」
「3、いや、4件目で見つけた」
阿部はもういつもの無愛想な顔に戻ってしまったけれど、俺から視線を外さなかった。頬杖もついていない。まっすぐに、俺を見ている。
だから、俺も阿部の目をちゃんと見て話そうと思うことができた。
「阿部がお菓子くれるって、すごい珍しいことだよね?」
「……多分、生まれて初めて」
小刻みにどきどき鳴っていた騒がしい心臓が、何時の間にかどくんどくん、という心地よいリズムになっていた。次の質問で、何かが終わる。そして多分、何かが始まるんだ、と思った。
「阿部」
「なに」
大事な最後の質問は、精一杯優しく聞こう。そう決めて、心の中で3、2、1とゆっくり数える。「俺のこと好き?」
耳元に顔を寄せ、かなり、と答えた阿部の声はそれ以上に優しかった。