きみの愛しい彼いわく

見慣れぬその7組の光景に栄口は数回ぱちぱちと目を瞬いた。
「めずらし」
いつも不遜な態度のキャッチャーがひとりで机に突っ伏している。その背中には三橋の練習着よろしく「僕は疲れきっています」と書いてあるかのようで、彼の周りには負のオーラが漂っていた。
「おーい、阿部ー?」
ひょっとして寝ているのだろうかと思い控えめに名前を呼べば、もそりとツンツン頭が動く。そのまま気だるそうに身体を起こすと、阿部は深く息を吐いた。眉間の皺はいつもながら2割増でご健在だった。
「栄口…ああ。篠岡のデータ間に合いそうだからミーテ練習後に延期だって」
「あ、そなの」
「悪ィな、さっきだったから伝えらんねかった」
「うん、それはいいけど」
凝りをほぐすように首を回す阿部を見て、さてどうするかな、と栄口は考える。ミーティングが無いのなら、自分がここに居る理由も無いのだから戻っても良いのだが、先ほどの彼の憔悴っぷりを見ないふりをするのは忍びなかった。少し迷ってから、栄口は阿部の前の椅子を引いた。
「なに、今日はどっち」
阿部の悩みがほぼ2択問題であることを知っている。選択肢すら述べずにそう問えば阿部は何か文句を言いたげだったが、その口で結局三橋と言った。
「三橋がどしたの」
「なんかもう、あいつ分かんねぇんだよ」
「え、今更?」
とっさに出てしまった素直で正直な自分の感想を聞いて、じろりと阿部は睨んでくる。笑いながらごめんごめんと謝れば盛大な舌打ちで返された。
「あー、そーいや水谷居ないの」
あからさまではあったけれど、話題を逸らそうと自分の座っている席の主の名前を挙げる。水谷の机の上には歴史の教科書とノートが開きっぱなしで置いてあった。その上には「大宮予備校」のロゴが消えかかっているシャーペンと消しゴムと、ピンクのマーカーペンが無造作に転がっている。
「アイツはなんか授業終わったと同時に飛び出してった、どこ行ったのかは知らね」
「へー」
相槌を打ちながなら、少し考えてそれらを机の隅に揃える。開いたスペースに持参した弁当と紙パックの烏龍茶を広げる。別に教科書とノート机の中にしまってペンをペンケースに入れて完璧に片付けたとしても水谷は頓着しないようにも思えたが、そこまで人の私物をいじる気にもなれない。
「で、三橋がどうしたの」
いつもは嫌味なくらい理路整然と話すくせに、こと三橋ともうひとりに関しての場合はいちいち促してやらないと口を開こうとしない。今も、だから、と言った後で阿部は言葉を探すように言い淀んでいた。それでも俺は待つ。弁当の卵焼きを食べながら。
「……3限の後、9組の前通ったんだよ」
「うん」
「で、三橋見えたから、声掛けて」
「なんて?」
「別に、フツーに。そろそろテストだな、とか、今何の授業だった、とか」
「うん」
「……そしたら、泣きながら、謝られて」
「……うん」
「泉は退場って言ってくるし、もーマジわっかんね、ほんと何なんだよ、テストって別に普通の話題だろ!何にも責めてねえだろ……っ!」
一連の流れがものすごく想像できた。泉審判長が退場宣言をする前にホイッスルを吹いたオプションまで俺の頭は容易く想像に追加できる。一方、話しているうちにヒートアップしてきたらしい阿部は言葉にどんどん力が篭っていく。机に置いた拳はふるふると震えていた。
「最近じゃ結構他の奴らとはフツーに話してるくせに、なんで俺に対してだけあんなびびんだよ」
そんなつもりはなかったけれど、俺が息を吐いたのを溜息と解釈したらしい阿部があからさまに苛立った視線をくれてきた。このまま阿部がささくれていると、三橋にそれこそ二次災害を引き起こす恐れがある。仕方がないので、俺はとっておきの話をしてやることにした。
「ちゃんと聞いてるよ。だから、それは阿部が特別だからでしょ?」
「は?」
呆けた阿部はいつもより幼い顔をしていて、これがデフォルトの表情であればもっと話は簡単だったんだろうなあ、と少し切なく思った。まぁそんな阿部は嫌だけど。
一口烏龍茶を飲んで、もう一度だからね、と続けていく。
「あのね、三橋は誰と話すときも大体キョドってるよ。慣れてないから反応も遅いの」
それでも三橋の頭の中はフル稼働しているのだけれど、と言葉にせず頭で付け足す。だらけた体勢のままだが、話を聞いている阿部の目はいつのまにか真剣だった。
「で、まず頭良くてテンポのいい会話ばっかしてるやつはここでイラッとするわけね。それこそお前、あと花井とか」
「………」
「三橋はああいう奴だからこそ相手がちょっとでもイラつくとすぐ分かるんだと思う。だから、三橋は特にお前らを怖がんの」
そんなのは分かってる、とでも言いたげな阿部は面白くなさそうに視線を外す。何だかそれは拗ねているようにも見えて、普段の阿部を知る者としてはとても貴重な光景だった。
「言っとくけどね、イラついて声が荒くなったり言葉が強くなったりするから怖いんじゃないよ?」
「は?」
「もちろんそれもあるけど、そんだけじゃないと思うよ」
あのね、と言葉を区切ったのは迷ったからだ。それでも、彼を思い出せば不思議と続きを言いたくなった。
「三橋はね、嫌われたくないから恐がってんだよ。三橋は阿部のこと、大好きだから、嫌われんの怖いんだよ」
この話を聞いたとき、大好き、という表現はどうかと思った。だけど最初はこのくらいシンプルであった方が不器用なウチのバッテリーにはいいのかもしれないと、今は思う。
「イライラすんのはしょうがないよ、でもそこはちゃんと分かってあげて、そんで忘れないで欲しいって言ってたよ」
心底驚いたように数度瞬きを繰り返した阿部はとても小さい声で、だけど素直に、あぁ、と呟いた。照れているのは一目瞭然だったけれど茶化す気にはならない。そして少しの間が空いて、黙って視線を伏せて居た彼がすっと顔を上げた。
「言ってた?」
最後に付けた伝聞の表現を彼の耳はちゃんと拾っていたらしい。阿部の視線は明らかに誰が、と訊いている。
「そう、水谷の三橋考察より抜粋」
「はァ!?」
名前を出した途端、あからさまに歪んでいく表情に今度こそ本当に溜息を吐いた。
3日前くらいの話だ。いつものように練習が終わって、いつものように阿部が怒鳴って、いつものように三橋がびびっていたときのことだ。
その日常と化した光景をトンボをかけつつ眺めながら俺と水谷でどうして三橋はあんなに阿部を怖がるのか、という話になった。もちろん三橋が怖がっているのは阿部だけではないし、そういう性格だから、と言う結論に集約される。そんな展開の見えているなんてことのない話だったのだが、そこで水谷はぽつりと言ったのだ。三橋は阿部が大好きだから怖がるんだよ、と。
好きだから嫌われんの怖いんだよ。俺も好きなやつに嫌われんの怖いもん。そう真面目な顔で彼は言ったのだ。
「分かるんだって、水谷も嫌われんの怖いから」
きまりの悪い顔とはこういう顔を言うのだろう。お前のことが大好きなあいつらにその複雑な顔を見せてやりたいよと思いながら俺は止めていた箸の動きを再開させる。
「あの、さ、あいつ、他になんか」
「阿部、ただいまー」
阿部がようやく口を開いたジャストタイミングでその声は話題の張本人に遮られた。反射的に俺も阿部も肩をびくつかせる。そんなことは露知らず笑っている水谷の手にはコンビニのロゴの入ったビニール袋があった。
「栄口ー、いらっしゃーい」
「あ、ごめん、席借りてる」
「いーよいーよ。出しっぱなしでごめんねー」
興味本位でちらりと阿部を見ると、先ほどのきまりの悪い顔に新しいものがプラスされていた。喜怒哀楽で分けるなら明らかに「怒」だ。
「水谷って大宮予備校行ってたの?」
「え?行ってないよ、なんで?」
「や、ホラシャーペン」
先ほど片したそれを視線で示せば水谷はああ、と笑った。
「それ駅で配ってたやつなの。俺受験の日ペンケース忘れてさぁ、それのお陰で助かったんだ。それからずっと使ってんのー」
「水谷……」
「そんなことより見てみて! デザート買ってきたー!」
お前それはそんなことに括っていいのか、と俺の頭が考えるより先に水谷はプラスチックカップに入ったそれを恭しく阿部の机に置いた。ドームカップに入っているそのコンビニスイーツはチョコクリームとイチゴの乗ったかわいらしいデコレーションが施され、ベース部分はガトーショコラの間に生クリームとイチゴジャムが入っている。
「お、奮発したね」
華々しい中身とラベルの320円を見てそう言うと水谷は嬉しそうに頷いてから、ちょっとあげるね、と笑った。水谷は隣の席のやつの椅子を引いて腰掛けると慎重にまるい蓋を外す。そこでようやく、黙りこくっていた男が口を開いた。
「水谷」
「阿部も欲しい? …ひとくちならいいよ、でも俺がすくったひとくちだよ!」
水谷は俺の時の数倍の警戒心をあらわにする。阿部、お前のひとくちは一体どんなひとくちだったんだ。
「ちげえよ、お前、ちょっと来い」
「え? だってオレ今これ食べ」
「いいから来い」
「え、やだよ」
「来い」
「やだ」
「来いって言ってんだろ!」
「俺だって、やだって言ってんじゃんか!」
ぎゃあぎゃあと続く埒があかないやり取りに栄口は心底同情する。どちらかではない、2人に対して。どうしてこいつらは第三者の目があると上手くいかないのだろうか。吐く溜息は7組に来てから何回目になるか分からない。
「水谷、行って来な。きっといいことあるよ」
せっかく助けてやったというのに阿部がものすごい形相で睨んでくる。申し訳ないくらい全然怖くなかった。
「阿部、どうかした?」
「なんでもねえよ」
逆に俺が笑ってやれば、まさしく苦虫を噛み潰したように視線を逸らし低い声でそう言われた。その横で、いいこと、と口の中で小さく呟いた水谷がくるっと表情を一転させる。
「なになに! 阿部なんかくれんの!」
「やらねえよ! いいから来い!」
水谷の上着の襟を引っ張るようにして阿部は立ち上がり、そのまま教室の出口に向かう。俺は引きずられるように後ろ向きに教室を出て行く水谷にヒラヒラと手を振った。2人の姿が左に消えたところで、入れ違いに反対側から花井が見えた。訝しげな顔をしてるところを見ると、今出て行った2人と遭遇したのだろう。
今更だが、確実に勢いのみで出て行った阿部は水谷に一体何と言うのだろうか。
期待いっぱいのキラキラした目を向けてくる水谷を前にして、その状況になってようやく焦る阿部が思い浮かぶ。
「おかえり」
疑問符を飛ばしながらこちらに気付いた花井にとりあえず笑顔を返しながら俺は軽くストローを噛んだ。