水谷が居ないことに気付いたのは昇降口だった。靴を履き替えるときいつも左斜め下に見える茶色い頭が無い、そんな些細なことに違和感を感じた。
「あれ、あいつは?」
阿部の心を透かしたかのようなタイミングで、ミーティングで使った資料の束を読んでいた花井がきょろきょろと辺りを見回す。既に外に出ている田島や三橋たちの中にも歩いて来た廊下側にも水谷の姿は無い。
「あぁ水谷なら教室戻るって言ってたよ」
なんか忘れ物したんだって、と続けながら栄口がひょこりと反対側の靴箱から顔を出した。
「プリントがなんとかー小テストがなんとかーって言ってた。花井、年間予定見せて」
「あぁ、グラマーのやつか」
大きいクリップで束ねてあった用紙のうち、何枚かをめくって花井が用紙を渡す。その横で阿部はたった今履き替えたばかりのスニーカーを脱いだ。
「阿部?」
以前、あべはいいな、そこ取りやすいでしょ、と言われた自分の下駄箱から上履きを床に落とす。「俺も忘れた、先帰ってていいから」
さらりと嘘を吐いて、じゃあまた明日、とチームメイトたちを見送って廊下を戻った。
1年7組の後ろのドアは開けっ放しだったので少し覗けば廊下からでも中の様子はすぐに分かった。
橙色の夕日が差し始めた教室に居るのは水谷ひとりだけで、彼は静かに一番後ろの窓際の席に座っている。どのクラスでも大人気のこの好ポジションは水谷の席ではない。勝手に座っているのだろう。阿部から見える彼の右耳には白くてまるいヘッドフォンが掛かっていた。確か先週新しく買ったのだと嬉しそうに言っていた気がする。そのヘッドフォンから流れる音楽を聴きながら水谷はぼんやりと外を眺めて、たまに小さく唇を動かしていた。
水谷はよく聞いている音楽を口ずさむ。メインメロディだったり伴奏のドラムだったりと彼の気分で変わるそれは、誰に聞かせるわけでもなくいつも小さく歌われる。
水谷が他人の席を勝手に拝借するのも、ぼうっとするのも、小さく歌を歌うのも、全部いつも通りのことだ。何らおかしいことはない。
ただいつもと違うのは、空気、それだけだ。その空間は温度や音や時間が絶妙に絡み合っていて。水谷はそのバランスを壊すことなく溶け込むようにして座っていた。その一角はまるで透明なバリアが張ってあるようだった。入らないでね、と静かで柔らかな拒絶があった。水谷に驚くくらい緩みはない。居るだけで様になる男を阿部は初めて見た。そして、言い知れぬ寂しさに飲み込まれる。
ぼうっと教室の入り口で立ち尽くしている阿部の後ろを、女子生徒が2人ぱたぱたと走り抜けていく。ぼんやりした頭に彼女たちの楽しげな笑い声が響いて、そこでようやく我に返った。
ようやく脚を動かして教室に入る。無意識に忍び足になりそうだったので意識して普通に歩く。それが既にぎこちないことだと頭ではわかっていた。
「……水谷」
茶色い頭の真後ろに立って、そう名前を呼んでも返事はない。そう言えば、このヘッドホンには周りの音をシャットアウトする機能があると言っていた気がする。そうか、自分は今、シャットアウトされているのだ。それに気付くと更に胸が軋み、同時に生まれたのは苛立ちだった。
あべだいすき、と繰り返しながら懐いて笑っていつだって側に来るくせに。それを当たり前にさせておいて、急に違う顔をするなんてずるいじゃないか。
ふわりと空気が揺れて、少しだけ開いていた窓から吹き込んだ風が水谷の細い髪を散らせる。水谷が小さく息を吐いた瞬間だった。
「のおぁっ?」
水谷のパーカーのフードを思いっきり下に引っ張った。支点、力点、作用点の要領で水谷の首がすこんと上を向いて、何とも形容しがたい声が間抜けに響く。
「よお」
「だっ、ちょ、あーもう、阿部かよぉ! びびったあ」
阿部が教室に入ってきたことも後ろに居たことも名前を呼んだこともやはり気付いていなかったらしい。振り返った水谷は数回ぱちぱちと瞬いて、大げさとも言えるくらい大きな溜息を吐いた。耳に当てていたヘッドフォンを外して首に掛けプレイヤーのスイッチを切りながら、まじでびっくりした、とひどく真剣に呟いた。
「みんなと一緒に帰ったのかと思ったよ」
「あぁ」
「カバンなかったし、あ、何、忘れ物とか?」
「いや、別に」
「そなの、俺はねプリント忘れちゃって、英語明日までだよね」
「あぁ、うん」
「うん……あべ、どうかした?」
阿部は心の中で舌打ちした。どうかしてんのはそっちだろ、と喉まで出掛かった言葉を飲み込むが代わる言葉は思いつかない。加えて阿部はこの優しく諭すような水谷の声にも苛立ちを覚えた。水谷らしからぬ落ち着いたそれは甘く耳にとても心地よい。だが一方で何かが溶かされてしまう気がする。
分かっている、これも、知らないせいだ。
掴んでいた手は放したものの、阿部はそこから動かない。かと言って更に口を開くわけでもなく手を伸ばせばフードが引っ張れるという位置で、ただどうすることもなく立っている。
「別に」
「別にって顔じゃないよ、それ」
寂しいと思った、だから触れたいと思ったのだ。だけど知らなかった水谷が、それにブレーキをかけさせる。全部全部、お前のせいだ、と阿部はどうしようもない気持ちを乱暴にまとめようとした。
「いい、気にすんな。俺帰るわ、お前も」
「あーべっ」
甘えるような声に顔を上げれば水谷が優しく目の奥で笑う。あ、これは知ってる、と思った瞬間だった。水谷は授業中に後ろの席の阿部に話し掛けるときのように床を蹴り上げ、後ろにイスを傾がせた。最後尾の席に寄りかかるものは、無い。
「おまっ!」
阿部はとっさにイスごと抱え込むようにして身体でそれを受け止める。予想外にかかる腕の負荷に水谷が加減など一切しなかったことが分かった。もしも阿部が受け止めなければ水谷はそのまま床に叩き付けられていたことだろう。このイスの背もたれは背中の半分くらいしかないから下手したら後頭部を打っていたかもしれない。瞬間的に働いた想像に背中を冷たいものが這う。
「ナイキャ! さっすが!」
「ばっお前な…っ!」
「えへへ」
そんなことはまったく気に留めず、阿部にイスと全身をあずけたまま水谷は笑った。綺麗でもかっこよくもないが、阿部の好きな笑い方だった。
「バカじゃねえの。っとに危ねーだろ、頭打ったらどうすんだよ」
「ん、ごめん」
腕の中の水谷がもう一度、ごめんねあべ、と笑う。ただそれだけで、驚くほど阿部の心は穏やかになった。
「あべ」
そしてまるで何もなかったかのように水谷は阿部の二の腕と首の後ろへ手を回し、引き寄せてくる。呆れ半分で促されるまま阿部が無言で上半身を傾けると、ゆっくりと水谷は阿部の胸に顔を押し付けた。パーカーに付いているふわふわした何かと水谷の髪の毛が阿部の首に触れる。腕の中の身体は暖かく重かった。
「あーべー」
「っとにバカだな、お前」
「んー、えへへ」
「えへへじゃねえよ」
無駄だと知りながら、阿部は頭の中でバカ、ガキ、考え無し、クソレフト、と思いつく限りの罵倒の言葉を繰り返す。
「あべ、ありがと」
最後に好きと付け足して、水谷の首筋に顔を埋めた。