ある爽やかな朝の話

「ねっみ・・・」
ぐいと大きく腕を伸ばしながら泉が呟いた。半歩後ろを歩きながら水谷はその呟きに力いっぱい同意する。夏合宿が始まって3日目の朝。大分このハードな生活リズムにも慣れてきたがやはり眠いものは眠かった。水谷が通算4回目の欠伸をしようとした瞬間、後ろから賑やかな足音が聞こえてくる。「田島か」
「おはよー!」
まっしろいタオルをぱたぱたとたなびかせながら田島が走りこんで来た。追いついて並んだところで田島はもう一度おはよ、と元気に笑って一緒に歩き出す。
「おはよー」
「おー、あ! 水谷ネグセついてんぞ」
「え、うそ」
慌てて窓ガラスに映った自分を見れば、田島の言う通り後ろの辺りがぴょこんと上を向いていた。おそらく昨日生乾きのまま寝てしまったのが原因だろう。
「あーほんとだ……」
「お前って練習の後、帽子の跡もついてるよな」
「うん、なんか跡つきやすいんだよね」
「水谷の髪やわっこいもんなー」
田島が跳ねている部分を押さえつけるようにして触れる。だが田島の指が離れた瞬間、そこの髪はやはり元気よく外側にくるっと戻ってしまった。その様子をみて田島と泉はケラケラ笑っている。
「おーアンテナみてぇ」
「……うっさいよ」
田島の髪は跡がつくほど長くないし、泉はたまに毛先が外に跳ねているくらいだ。剛毛というほどでもないが、しっかりしているのだろう。それに比べて自分の髪は柔らかくふにゃふにゃしている。我ながら触りごこちは悪くないと思うのだが跡はすぐ付くしワックスは付けすぎると重みに負けてしまうし結構厄介だ。
そう言えばいつだったか同じように髪の話題になったとき、性格って髪に出るんじゃねえの、と嫌味なキャッチャーが嫌味な笑い方をして言っていた気がする。そのときは反対した気がするが、目の前の2人を見ればあながち冗談でもないように思えてくるので微妙な気分になる。
「そういえば、三橋もよく付いてるな」
「おー、あいつ帽子取るとまんまるだよな」
楽しげに少し前を歩くふたつの黒い頭に恨めしげな視線を送りながら、水谷は左手で跳ねている部分を指に巻きつけてみた。こうすると少し誤魔化せるのだ。花井のようにコンプレックスを持っている訳では無いけれど、もうちょっとしっかりしてくれたらなぁ、なんて思いながら再び窓に目をやる。すると思わず、あ、と口に出しそうになった。窓に映る自分の姿の奥に向かい側の校舎の家庭科室が見える。
彼女が居た。
最近はいつのものことだけど、彼女を見ると胸の奥が重くなる。目が離せなくなる。

(あ、しのーか、エプロンしてる)

かわいいなと思った直後、家庭科室には向き合うような形で阿部の姿もあることに気付いた。阿部の口は細かに動いていて何かを話しているらしい。そして、小指くらいの大きさの篠岡がふっと俯いたのが分かった。篠岡はそのまま顔を上げない。
些細な会話でも相手の目を見て話す彼女にしては珍しいと思ったのと同時に、胸騒ぎがした。無意識に指先に力が込もって冷たくなっているのが分かる。
水谷の中で「まさか」と「もしかして」がぐるぐると回っていた。そして窓の向こうの彼女が俯いたまま静かに目を擦った。
「え、おい! 水谷!?」
歩いて来た廊下を走り出した。あのこが泣いている、理由はそれだけで十分だった。

三橋くんが、指を切った。にんじんを切っている最中、添えている左手に刃がうまく当たってしまったのだ。切ったのは左手の小指の付け根だったし傷も血が滲む程度のものだったけれど、大事なのは「三橋くんが、私が持たせた包丁で指を切った」ということだ。三橋くんは通りかかった監督に連れられて、手当てをしに行っている。
そして2人きりになった家庭科室で、彼は冷たい声で言った。「だから、言ったろ」と。
「左手だったから良かったものの」
俯いたのは失敗だった。いっそのこと、後ろを向いて、いやもうそれどころか三橋くんと一緒に家庭科室から出て行ってしまえばよかったのだ。頭の中はもうずっといつも通りいつも通りと繰り返すだけで使い物にならず、動く事もできない。
私が三橋くんに包丁を持たせようとしたことはきっと問題は無かったし「2人で朝食を作る」という監督の指示から外れてはいない。だけど、三橋くんに刃物を持たせるということは阿部くんにとっては重大なことで、そして私にとって阿部くんが怒るということは重大なことだった。
「アレが右手だったらどうなると思ってんの」
彼の声はいつも通り乱暴に私の鼓膜に言葉を届ける。大好きで愛しいはずの彼の声に、どんどん追い詰められながら私は唇を噛み締めるのに必死だった。指はエプロンのポケット辺りをぎゅうと握り締めていて、もう血が止まりそうだと思った。
「控えができたって言っても試合通して投げられんのは三橋だけだし、あいつは投手のくせにこういうことに無頓着だから周りが気をつけてやんないとダメなんだよ」
いつも通りにしたい。いつもの私ならきっとごめんなさいと謝って、でも2人で料理するなら包丁くらいは持ってもいいと思うよ、とちゃんと意見を言えるのに。どうして彼というだけでできなくなるんだろう。
重力に水分が引っ張られてしまう。やっぱり俯いたのは失敗だと思った。

言い過ぎた、と思ったのと同時だった。
「おはよー!」
ガラガラっと派手な音をさせて、家庭科室のドアが開かれる。静かだった空気を裂く音に俺も篠岡も反射的に肩をびくつかせた。そこに居たのは処置から帰ってきた三橋でも監督でもなく、水谷だった。
「水谷」
「え、み、ずたに、くん?」
「2人ともご苦労様ー」
今まで黙って俯いていた篠岡もようやく顔を上げて水谷を見ていて、その様子に俺は内心ほっとした。水谷はいつも通りのあの緩い表情を浮かべたままぺたぺたと俺たちに近づいてくる。
「あ、えっと、どうしたの?」
「あー、あのね、しのーか、コールドのストックってどこにある?」
何か左手首変なんだよね、と眉を下げて水谷は笑った。
「え? 大丈夫? あれ、でも、薬品箱のなくなっちゃった?」
「んーと、ごめん、俺薬品箱もよくわかんない……しのーか一緒に来てくれる?」
ぱん、と大げさに手を合わせて水谷は篠岡に頭を下げる。お前、そんなことしたら左手痛いんじゃねえのか、と思ったが言わなかった。
そして俺は水谷の後頭部の髪が跳ねているのに気付いて、変に暖かい気持ちになる。ふにゃっとしていて細い、いわゆる猫っ毛なこいつの髪を俺は嫌いじゃないが、水谷本人に言わせれば難しい髪だそうで、きっと今日もこの後泉あたりにからかわれてぶつくさ言うのだろう。そんなことを思ったら思わず頬が緩みそうになった。
「あ、うん、いいよ!」
「ごめんねー」
「あ、阿部くん、あの、ごめんね、ちょっと行ってくるね」
「おう、てか水谷、お前朝っぱらから人の手間増やしてんじゃねえよ」
恥ずかしいことを考えてしまった照れを隠すために、呆れているように見えるように精一杯言った。えへへ、と笑って出口に向かう水谷たちの背中を見送りながら、俺は小さく溜息を吐いた。顔が少し熱い気がする。
「阿部」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げる。
ドアを閉める直前、水谷が振り返ってごめんねと言った。見たことも無い冷たい表情だった。

「なんだ、あいつ」
水谷がいきなり走り出した。突然のことで追いかける、という発想もわかなかった俺たちは少しの間そこで小さくなる水谷の後ろ姿を見ていたがが、それが見えなくなるのと同じくらいに再び歩き出した。
「泉、見た?」
視線はまっすぐ前の水谷の走っていった先に向けながら、田島がひどく真剣な口調で言った。俺の数歩後ろに居た田島を待つように俺はゆっくりと歩幅を合わせる。
「見たって?」
「水谷」
「あいつがどうかしたか?」
「めっちゃ怒ってた」
「はぁ? あいつが?」
信じられずにそう返せば、真剣な顔でうん、と頷かれる。
田島が嘘を吐いているとは全く思っていないけれど、それは自分にとって簡単に想像できない言葉だった。水谷は田島と三橋ほどでもないがどちらかと言えば怒られることの多い人間だ。その彼が誰かに怒りを向けるということの違和感がどうしても拭えない。
「なんて言うかわかんないけど」
「うん」
「別に超怒ってる! って分かる顔じゃないのに、怖い感じだった」
気付いたのはいつだったか覚えていないが、感覚で話す田島の顔はいつもより少しだけ大人びて見える。今の田島はそんな感じだ。そしてその田島の「感じ」は大抵当たっている。
「ふーん」
意味もなく視線を汚れた天井に向けて、小さく息を吐く。脳裏に浮かぶのは甘えたで力の抜ける笑い方をするチームメイトだ。やはりこの男が怒る表情は想像できない。
けれども、想像ができないからと言って怒らない訳ではないことも知っている。
「そりゃ、よっぽど許せねーもんでも見たのかね」
窓の外を見る。今日も暑くなりそうだった。