「お前それから食べんの?」
卵焼きを挟みかけた箸を止めてまでした質問は水谷がパンの袋を勢いよく開ける音に重なってしまった。
「え?なに、どういう意味?」
今日はパンなんだ、と昼休みになるとすぐに水谷は俺の机に3つのパンを並べた。ふたつは普通の惣菜パン、もうひとつはいかにも甘いものが好きな水谷が選びそうな菓子パンだった。後者はてっきりデザートにするのかと思っていたら、水谷は迷わず1番にその菓子パンを開けたのだ。
「甘いの最初に食べたらずっと口ん中甘いじゃん。で、そのままそっち食べたら味混ざってきもくね?」
甘いおかずはおかずじゃないと語っていた花井が居たら全力で賛同してくれるだろうに、残念ながら主将殿は部長会で不在だった。ペットボトルの烏龍茶をあおりながら、軽く顎と目でまだ開封してないハムチーズもちもちパンとカレーパンを示せば水谷は言っている意味が分かりません、とでも言いたげに数回ぱちぱちと瞬きをした。
ただでさえしまりの無い顔をしてるくせに、そんな行為をしないで欲しい。三橋と田島の会話を聞いているのとは微妙に違った理由で気が抜ける。しかもちょっとかわいいとか思ってしまった。不覚だ。そしてこの不覚が俺の中で異常発生していることに俺は何となく気付いてしまった。
認めたくないが、俺は水谷を可愛いと思っているらしい。まったくもって大問題だ。
俺は卵焼きを口に運びながら、いや、問題はそこではない、と頭の中で訂正する。百万歩譲って水谷がかわいいとしよう、だが問題は水谷をかわいいと感じる理由がひとつしか思いつかないことと、その理由の場合どうしてよりによって水谷、ということだ。
特に2つ目の問題は男同士とか基本的なものは別にしても、あきらかに俺は水谷のようなタイプとは相容れない為かなり謎だ。俺ら2人を知るヤツらは全員がそう思うだろうし、俺自身もそう思う。あのふざけた緩くて甘ったれた態度に、ついこの間まで毎度イライラしていた覚えも、我慢できずに怒鳴ったり手を出した覚えもある。だが、今の俺の中にはそれとは程遠い感情があるのも認めたくないが事実だった。
今の俺はどうしても目の前で生クリームとイチゴジャムがぎゅうぎゅうに詰まった菓子パンを間抜け面で食らう男をかわいいと思ってしまうのだ。くそ、腹が立つ。
「えーよくわかんないな」
一瞬、自分の思考に対する答えかと思ってしまった。だが水谷がわからないと言ったのはさっきの話に関してで、大きく頬張ったそれを飲み込んでから何かを探るように口をもごもごさせた後で結局そう言って笑うと再びパンにかぶりついている。
「てゆーかさ、阿部と2人でごはん食べるの初めてじゃない?」
「……そうか?」
「そうだよ、前に花井が居なかったときは2人で9組行ったじゃん。阿部が三橋と話したいとか言って、じゃあ俺もーってついてった気がする」
「あー、球技大会終わったあとくらい?」
そうそう! 嬉しそうに水谷が頷いた。
思えば、入学してから最初に行われた席替えで何の因果か俺と水谷が前後席になった日からほぼ毎日俺たちは3人で昼飯を食べている。
席替えをしたその日、水谷は昼休みになると当たり前のように自分の椅子を俺の机に向けて回転させ、隣の席の村田だか村上だかに「イスかしてー」と叫んでから「はーないー」と窓側最後列という好ポジションを確保している花井を呼ぶようになった。
最初は単に用事でもあるのかと思ったらしく手ぶらで寄って来た花井だったが、あまりにも当然のように俺の机に我が物顔で弁当を広げる水谷を見、さらに「花井は村山んとこね。てか弁当忘れたの?」という質問を受けて合点がいったらしく俺に尋ねるような視線を送ってきた。俺も水谷が3人で昼飯を食べようとしていることが分かったのはこのタイミングだったのだが、今更「何でお前は俺の机に弁当を広げるんだ」とか「勝手に決めるな」とか言っても面倒だったので「来れば」と言ったのだ。
その日から、花井は昼休みになると毎日自分の机にひっかけているエナメルバッグごと持って、俺の斜め右前の村田でも村上でもない村山の席に座るようになった。
ちなみに水谷は一度だけ何を思ったのか、いつものようにイス使用の許可を貰ってから花井を「あーずさちゃーん」と呼んだことがあった。
水谷いわく「ルパンが不二子ちゃんを呼ぶ発音」だったらしいが、まぁそれはどうでもいい。とにかく教室が一度しんと静まり返っていくつもの遠慮がちな視線が下を向いて打ち震えている大柄な野球部主将に集まってから、原因を作り出した水谷に花井が早足で近寄りそのまま無言で頚動脈をロックするまでを最至近距離で見ていた者としては中々に退屈しない光景だった。
その頃はまだ水谷と2人で居ることを改めて意識したり、よもやかわいいだなんて思ったことは無かった気がする。じゃあいつから俺は水谷をかわいいだなんて思ってるのか、と考えてみて5秒で後悔した。もう確定か、俺。
振り切るように空になった弁当箱に箸を投げ出すと、水谷は驚いたように顔を上げる。
「え、阿部もう食べ終わったの?早くない?」
「お前が遅いんだよ、さっさと食っちまえ」
話すのに夢中になっていたり箸を落としたりと騒がしい水谷はいつも食べ終えるのが1番遅い。それにしたって菓子パンひとつに15分はかかりすぎだ。
「なんかもったいなくて、やばいよ、コレすげーヒット。明日も買おっと」
「あっそ」
幸せそうに頬を緩める水谷をあまり直視したくない。絶対にまたあの四文字が出てくるに決まってる。
「ちょっと阿部なに、その態度!生クリームなめんなよー!」
適当に返した相槌が気に食わなかったらしい水谷は真剣な顔でそう言った。人の葛藤も知らずにいい気なもんだ。八つ当たり気味にそう毒吐いて俺は弁当箱を包んであった布(母親に言わせればナプキンらしいが、自分にはハンカチとの違いが未だにわからない)で元のように包んでいく。
「ねーねー阿部って、甘いの全然ダメだっけ? それとも生クリーム嫌い?」
「別にそこまでダメじゃねえけど、あんま量食べると気持ち悪くなる」
きゅ、とカタ結びをしてから隙間に箸箱を差し入れて多少乱暴にカバンに放り入れた。
「じゃあさ、一口食べてみて」
「はぁ!? いらねえよ!」
「いやコレ絶対おいしいから! ね、ホラ! はい!」
有無を言わさず、ずいっと目の前に差し出されたパンと水谷の笑顔と言葉。そして、心臓がばくばくするのを何とか必死で抑えようとする俺に水谷はにこりと笑って言った。
「はい、阿部、あーん」
瞬間、もう何だかいろんなことがどうでもよくなった。考えていたことが一瞬にして砕け散っていく。
俺は甘ったるそうなそれに吸い込まれるように身を乗り出して、ゆっくり口を開いた。
「────ああああああっ!!」
パン食い競争のように勢いよく食らいつくと、そのまま残り全部を奪ってやった。
水谷の絶叫が教室に響く中、もぐもぐとできるだけ派手に口を動かす。空になったビニール包装を握りつぶして水谷は数回はくはくと口を動かしているが言葉はないようだった。
「ごっそーさん」
ごくん、と水谷にも分かるように飲み込んで意地悪く笑ってやると、放心状態だった水谷の瞳が少しずつ潤んでいく。その光景に背筋がぞくっとした。愉しすぎる。
「あ、阿部のばかーっ!! 一口ねって言ったじゃんっ!!」
「一口だったろ」
「ちがうっ! アレは5口くらいあった! 阿部のバカ! クソキャッチ! ちび! 返せっ!」
水谷が喚いている途中、部長会を終えたらしい花井が教室に入ってきた。すると水谷はものすごい速さで花井のところへ駆け寄って俺がどれだけ悪いのかを語り始める。
その声を聞きながら俺は水谷をかわいいと思う自分と、好きなのだということを認めることにした。
「…………あっま」
口の中にはまだ生クリームとイチゴジャムの味が残っている。