透明な祈り

太刀川がそれに気づいたのは、3日目の朝だった。
生まれた疑念を飴玉のようにひそかに転がしつつ、ディスプレイに表示させた採点表に改めて視線をめぐらせる。ここにはない。頬杖をついたまま、昨日橘高に教えてもらったやり方で新しい画面を2つひらき、同じように表示された採点表画面をたどるが、やはり探している文字はなく、疑念は確信に変わりはじめる。
隣席の国近が空いたカップを持って立ち上がるのを見送ってから、ワンテンポ遅れて自分も運営用のデスクに向かった。
「おつかれさん、ちょっと教えてほしいんだけど、誰が何回採点したかってどっかで見れる?」
そう話しかければ、よどみなくキーボードを叩いていた指を止めて人見が顔をあげた。
「採点する側が評価した回数が知りたいってことですか?」
「そうそう、つけたポイントとかコメントじゃなくて回数が知りたい」
「見れますよ、そっちの席行きましょうか」
「サンキュー助かる」
言い終わる前に立ち上がってくれた人見がブースから出るのに合わせて太刀川はゆっくりと振り返る。端のシートに並んだ部下二人の後ろ姿を一瞬捉え、そのまま17番のシートに戻った。
……採点表の画面をひらいて、そう、そこの一覧で採点者名を誰か選んでみてください」
人見の指示通りにマウスを動かし、なんとなく目についた真木の名前をクリックすると小窓のポップアップがひらき、そこに彼女の採点履歴が日時の古い順で表示された。
「お、見れた」
「総数のカウントは、うん、右上の数字がそれですね」
採点回数、採点日時、採点した対象者、コメント、点数。たしかに知りたかった情報がまとまって表示されている。だけどこれは。
「もしかしてこの画面開くには最低1回は採点してないと名前クリック出来ない?」
「それは……そうですね」
思いがけない指摘だったのか、人見はすこし驚いた様子で右目をぱちりと瞬く。太刀川はすこし考えて、彼女たちが使っている運営補助用のデスクを指差した。
「あっちのパソコンだと誰が何回評価入れたかすぐ分かる?」
「あれは見せられませんよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「残念」
きっぱりと告げられたノーの回答。素直に引き下がれば、人見は控えめに笑いながらでも、と続けた。
「こっちの端末でも探せば分かる情報ではあるので、真っ当な理由があるなら許可もらえるかもしれません。上層部に確認してきましょうか?」
「うーん……まだいいや」
「まだ?」
「うん、まだ3日目だし。ありがとな、助かったわ」
ひらりと手を挙げて礼を述べる。太刀川はモニターに向かうと新しいウィンドウをひらいた。

翌日は早番での防衛任務だった。B級隊員の過半数が閉鎖環境試験に参加しているため当然ではあるのだが、この1週間はシフトがまわるサイクルがいつもより早い。特に4人編成かつ隊員全員が審査員になっている太刀川隊は、合同部隊を組まれることもなくずっと隊の単位で任務に当たっている。
『大学生って春休み長いよねえ』
『宿題とかもないんでしょー? いいなあ』
『え、俺あるぞ』
『太刀川さんのやつは宿題じゃなくて単位代わりって聞きましたけど』
本部基地を背にして太刀川を東、出水を西に据え、そのあいだのやや引いた位置に唯我を配置する。そのお決まりの布陣になって待機していると、視覚にアラートが入った。
『出そうだよ、今マークした。出水くんの方だね……数3。モールモッド、後ろの1体はちょっと大きいかな』
『はいはい了解、オラ唯我前でろ1匹分けてやる」
『えっ!? いきなりですか!?』
「国近、映像くれ」
『ほいほーい』
視覚に情報を送ってもらう。三月のまだ陽の登り切らない空に浮かんだまるく暗い穴。それに対峙する出水から四角いひかりが生まれ、砕かれ、さまざまな軌跡をえがいて飛んでいく。トリオン兵が四車線道路に降り立った瞬間に、そのうちの2体に雨のように降り注いだ。
一番大きい個体だけは無傷のままで、宣言通り唯我に獲らせるつもりのようだ。出水は威力を低く調整したアステロイドを使って、そのトリオン兵を唯我の射程範囲へと誘導していく。
ひいひい喚きながらも唯我の射撃はモールモッドの目を穿ち、ややあって最後の個体も沈黙した。
『はーいオッケー、三対とも反応消失~』
「追加は?」
『今んとこ無さそう~』
「了解」
どんどん明るくなる東の空を眺めながら、太刀川は通信を切り替えた。今まで使っていた隊全員用のそれではなく一人に向けて名前を呼ぶ。
「出水」
『はいはいなんすか』
「お前まだ1回も審査の採点つけてないだろ」
『えっ?』
はじめ気安く応答した出水は、しかし太刀川の指摘に分かりやすくうろたえた。静かに続く言葉を待っていると、間を経ても唯我と国近からなにも反応が無いことから太刀川の声が自分だけに向けられたものであると察したらしい。唯我に元の配置に戻るように口頭で指示を出してから「でも柚宇さんもじゃない?」と控えめに返してきた。
「あいつも取り掛かるの遅いからなぁ」
『太刀川さんのレポートと一緒じゃん』
「まぁな。でもお前は違うだろ」
ちらりと見えた逃げ道をはっきり断ち切って話題を戻す。そのまま太刀川が黙っていると、観念したらしい出水は、なんか、と続けた。ちょっとなんか、やりづらくて。そうやって話す声はめずらしく拗ねたように揺れていて、出水自身どう扱えばいいのか分かっていないようだった。
『点数つける基準がわかんないっつーか、自分とちょっと違う意見もコメント読んだら納得するし、そうするとおれのなかでプラマイゼロになってくっつーか』
「おお、まじめだな」
『はぁ? からかってんの?』
「ちがうぞ。そうじゃなくて、あー、応援、してる」
『太刀川さんがぁ?』
出水にとって太刀川の言葉は意外だったらしく、間髪入れずに失礼なリアクションが返ってきた。
「お前太刀川さんのことなんだと思ってんの」
『えーいやだって太刀川さんが他人の応援とかイメージないっすもん』
このやろう。けらけら笑っていそうな口調に思わず眉が動くものの、これまで幾度となく言われてきた「普段の行い」の五文字が頭に浮かんで微妙な心地になる。たしかにうそぶく癖はあるけれど、でも俺がお前を応援するのはおかしくないだろ。小さないらだち、かすかな孤独。しかしそれは秘めたまま、太刀川はゆっくり空を見た。柔らかく青い春の空を仰ぎつつ、ひとつ小さく呼吸する。
「採点の回数は隊にも個人にもノルマはついてないし、最終的にどうするかは出水が決めればいい。ただ俺は、がんばれって思ってる」
本心を伝えながら、たしかに説得力はないなと自嘲した。
太刀川自身が言葉よりも先に身体が動く生き物だ。それを強さと呼び変えられることもあるけれど、つまりは獣だ。あふれる衝動のまま、ただ目の前の獲物を喰らいたい。そう吠える獣を身の内に棲ませて生きている。
『まぁ……はい。おぼえときます』
「うん」
歪な願いだ。分かってる。それでも、こころを言葉にする、そういう人の営みを忘れぬようにいてほしい。そんなことをただ勝手に願っている。
「覚えといて、出水」
お前のなかにあるものが、お前をひとりにしませんように。
『あの、たちか』
『次出るよ~、太刀川さんの方だね、数5。またまたモールモッド』
「了解」
全体通信で入ってきた国近の報告に短く応答し、太刀川はグラスホッパーでビル跡の屋上へと飛び上がる。
ゲートはちょうど中学校のグラウンド跡地にひらいていて、春のまんなかに墨が落ちたようだった。
黒い球体から這い出る獲物にあわせて刃を振るう。太刀川は今日も獣と生きていく。やわらかく淡いひかりのなか、どこかでひばりが鳴いていた。

END