東さんに焼肉を腹いっぱい食わせてもらったあと、特に予定のなかったおれたちは本部に向かった。
真冬まっただなかの1月だというのに締めの冷麺まできっちり食べきった米屋は腹がはちきれそうだとかいって苦しんでいたくせに、フロアに村上先輩の姿を見つけるなり個人戦をねだりはじめた。その次おれね!と緑川まで手をあげたのを見て呆れと尊敬が入り混じる。
「マジかよ、お前ら元気だな」
「え、いずみん先輩やんないの?」
「さすがにまだ動きたくねぇわ」
村上先輩との対戦は魅力的だったしトリオン体になってしまえば関係ないとはいえ、食休みがほしい。村上先輩にはぜひ今度お願いしますと伝え、おれはひとり隊室を目指すことにした。
「ちーっす」
認証パスを打ち込んで隊室に入るとオートであかりがつく。部屋のなかには誰の姿もなかった。背後で扉が閉まる音を聴きながら、出水は着ていたダウンジャケットを脱いでソファに放った。
テーブルのうえに置いてあったコメディ漫画をなんとなく手に取って、入り口側のソファのまんなかに腰を下ろす。太刀川隊の三人掛けソファはつるっとした素材ながら座面も背面もボリュームがあり、おれたちのことはもちろん、ノートパソコンだろうが上着だろうがリモコンだろうがなんでも受け入れてくれる最強ソファだった。
スニーカーを脱いで胡坐になりソファに身体を沈めながらページをめくる。キャラクターたちのやりとりにうっすらと覚えがあったので、以前にも同じように手に取ったのだろう。そのまま数ページ読み進めてみたものの、眠気が強まりストーリーに集中できず、出水は漫画本をテーブルに戻すと代わりにクッションを引き寄せた。それをまくら代わりに横になれば、あっという間に意識は白くとけていく。目をつむる寸前、壁の向こうの廊下を行き来する足音と誰かの話し声がかすかに聴こえたけれど、そのまま出水は眠りについた。
目が覚めると、反対側のソファに太刀川さんが座っていた。黒い隊服ではなく、白いシャツに紺色のやわらかそうなカーディガンを羽織っている。換装前の生身の姿を見るのは久しぶりな気がした。
「おつかれさまです」
「おう、来てたんだな」
「東さんに焼肉奢ってもらって、そっから寄りました」
寝転んだまま身体を捻ってうつ伏せになる。カニ時計を見上げれば午後2時半をまわったところだった。眠っていたのは30分くらいらしい。目が覚めるタイミングが良かったのか、寝起きのわりに頭はクリアだった。
「おれらも戦功ボーナスもらったからワリカンでよくないすかって言ったら、大人ぶりたいだけだから気にするなってめっちゃ大人っぽいこと言われました」
「かっこいいなそれ、俺も使おう」
「太刀川さんはランク戦しにきたの」
あくびを噛みながらそう聞けば、太刀川さんは手にしていたタブレット端末をいじりながらゆるく首を振った。
「今日は臨時の隊長会議、ランク戦のとこまだ点検中だろ」
「いや? もう使えてましたよ。さっき通ったときやってんの見た」
「マジか、さすが復旧早ぇな」
そう言うなり太刀川さんは立ち上がったので換装してブースに向かうのかと思いきや、彼は生身のままおれの目の前にゆっくりと屈んだ。太刀川さんの着ていたカーディガンの裾がひろがって床の埃を撫でる。本人はどうせ頓着しないだろうけど。
ソファの肘置きを挟んで寝転んでいる出水と視線を合わせた太刀川は「お前らが人型とやったときのログ見たんだけどさ」と、左手のタブレットを持ち上げた。
「はぁ、どっちのすか」
「お前がその恰好してたほう」
思いがけない言葉を返され、面食らうと同時に膝をついて戦うしかなかった敵将との戦闘が脳裏をよぎった。
「うわーヤな言い方……」
揶揄された体勢のままでいるのも落ち着かず起き上がろうかと思ったものの、真正面から向けられた視線に身体が止まった。決して腹のうちを見せないモザイクがかったような格子状の瞳は、時々そういうふうに出水をあまく縛る。
「あの動物の弾って実際くらうとどんな感じなんだ、感覚あんの? ログだとなんかぐんにゃりしてたけど」
言いながら太刀川さんは静かに手を伸ばし、おれの左の上腕をゆったりと掴んだ。上体を支えるバランスが変わり、ほんの少しだけ重心が右に傾く。
「ありましたよ、でもいつものトリオン体とは違ってて、なんだろなー……えーっと」
身体の裏側がおちつかない。けれどそれを気取られたくはなくて太刀川さんから視線をはずし、記憶をたどることに意識を集中する。
被弾したのは最初に両足、そのあと左腕だ。弾をくらった後、たしかにどちらも自由に動かせなくなった。けれど刃トリガーで斬られたときのように分離するときの感覚ではなかったし、傷からトリオンが漏れたり、誰かと接続したりするときの流れとも違った。
なんとなく目を瞑って記憶に浸る。足を這い上ってきたトカゲが破裂したとき、足そのものは動かせなくなったけれど、足のトリオンは間違いなくそこにあった。詳しいことはまだ解析されていないけれど、でもたぶん「そう」だとおれの感覚は言っている。
「トリオン奪られたりするんじゃなくて、かたちだけ変わるぽかったんですよね」
「攻撃食らった部分が崩れる感じ?」
「いや、無理やりかたち変えられて歪むとか、鉛弾みたいな干渉系じゃなくて、もっと自然っていうか……」
もどる。ぽろりとその言葉が口をついて出水は目を開けた。
「ああ、うん、それかも。もとに戻されるかんじ」
繰り返すと、その言葉はやはり驚くほど舌に馴染んだ。氷が水になるのと同じように、あれはトリオンにとって当たり前の変化だった、そんな気がする。開発部の人たちが言うような専門的なことは分からないけれど、トリオンの変化の法則があるのだとしたらそれに則っているのだろうと思うくらい、あれはそれくらい自然で不快感がない変化だった。
「戻る、かぁ」
「それが近いですね」
違和感のない表現が見つかったのが嬉しくて頷けば、太刀川さんは「お前が言うならきっとそうなんだろうな」と困ったように笑った。かすかに苦みのあるその表情はどこか大人びて見える。不思議な心地だ。
「太刀川さん?」
太刀川さんは黙ったまま、おれの腕を掴んでいた手を滑らせると今度は手首をつかんだ。そしてなめらかにおれの指先に唇を寄せると、あろうことかそのまま小指を口にくわえて歯を立てた。
「ってぇ!!」
驚いて咄嗟に手を引こうとしたけれど、それは許されなかった。びくともしないその握力に、この男が生身で刀を振るっていたことを思い出す。強者の空気。ぞくりと肌が泡立って、細い電流が背中を抜けていった。
「本気で噛んでねえだろ、大げさなやつだな」
「そういう問題じゃないでしょ! ちょ、おれいま生身なんすから! ねぇ痛いのやだ! 離してって!」
「痛いの嫌なの?」
「そりゃそうでしょ……っ!」
ふたたび小指を咥えられ、第二関節あたりを歯で挟まれた。反射的にびくりと腰がはねる。すると今度は舌先が触れて、出水はとっさに喉の奥で声を殺した。あったかくて柔らかくて濡れている。他人の舌の感触なんてはじめて知った。ねえほんと勘弁して下手すりゃ勃つんだけど!
突然のトンデモ展開に大混乱しているおれをよそに、どこでどう満足したのか太刀川さんはおれの左手をあっさり解放すると、屈んだときと同じくらいゆったりと立ち上がった。
「黒トリガー相手によく粘ったな。よくやった、次もちゃんと戻ってこいよ」
出水。そうおれの名前を呼ぶ声は優しくてきれいな響きをしていた。会話の途中でいきなり部下の指を噛んだような男が放ったとは思えないくらいの。
「……いや、いやいや。誤魔化してんじゃねー! ねえなに今の、なんでおれ指噛まれたの」
「あー気にすんな、大人ぶりたかっただけだから」
「それ使い方絶対違うから」
「なはは」
出たよ。笑ってうやむやに流すお得意パターン。東さんに怒られちまえと内心で毒づきながら出水はのろのろと身体を起こした。
「俺ランク戦行くけど、お前どうする」
「……行きますけど!」
ああもういいや。思い切りぶっぱなして忘れよう。
戦闘時ならまだしも、普段この人が何を考えているのかなんて分かるはずがない。出水は脱いでいたスニーカーを履き直して、太刀川のあとに続いた。
噛まれた小指にもう痛みはない。うっすらついた歯形もきっとすぐに消えるだろう。
END