誰にも言わない

分厚い履修要項をめくっていた彼女が手にしていたのは俺の高校の頃の生徒手帳だった。冊子の隙間から発掘された手帳には入学直後に撮った写真が貼られていて、それを愉快そうに眺めながら「髭がないね」と言った。
「かわいいだろ」
「今は?」
「かっこいい」
「あはは」
からからと笑いながら、彼女は先ほどコンビニで太刀川が買ってやったペットボトルの麦茶を一口あおる。数週間前に誕生日を迎えたらしいので一応気を遣って、酒じゃなくていいのと確認したものの、ひとりで飲んでも楽しくないよと言って彼女は麦茶と3個入りのプリンをカゴに入れた。太刀川の二十歳の誕生日はまだ一年以上先だった。
春先に間違えて出席した授業で隣り合ったひとつ年上の彼女は、透明なファイルボックスにとても上手にプリントや筆記用具をまとめていて、思わずすごいなと声をかけたのが知り合うきっかけだった。顔を合わせたら話はする。でも連絡先と下の名前は知らないままだ。
今日はたまたま履修登録が面倒だとこぼしたら手伝ってくれるというので部屋にあげた。効率的なのが好きだという言葉通り、彼女はてきぱきと太刀川の後期の履修計画案を作りあげ、大きなジップロックのようなケースのなかにひとまとめにしてこれを8月までに履修登録システムに入力するようにと言い聞かせた。
「三門第一って紺のカバーついてなかった?」
「どうしたかなあ、どっかにある、多分」
ふうん。彼女のほそい指先がかわいい俺をついっと撫でる。それから生徒手帳はぽんと机に放り出された。

これからサークルに顔を出すのだという彼女を玄関まで見送ると、もう6時をまわっているというのにドア越しに見えた空はまだ真新しい青色をしていた。
部屋に戻って布団を踏みながらベランダの窓をあける。テーブルのうえに置いたままだった自分用に買った緑茶のペットボトルを手に取って夏に蒸された空気と一緒に飲み込んだ。
遠く響く蝉の声を聴きながら、いつのまにか床に落ちたカバーのない生徒手帳をぼんやりながめる。
入学のタイミングで配られたその手帳には、彼女に指摘された通り紺色のビニールカバーがかけられていた。わざわざ外す理由なんてあるわけなくて、ずっとつけたままだったそれを外したのは卒業式の日だ。

要らないなら、ください。

校章と三門市立第一高等学校という印字が入ったなんの面白みもないビニール製の生徒手帳カバー。しかも太刀川が三年使った中古品。そんなものを出水は欲しがった。4月になったら同じものを、しかも新品を受け取るだろうに。
コロッケがいいっす。おれファンタね。そんなふうにコンビニや自販機で声をかけてくるのと同じ調子で、いや、同じ調子になるように努めて精密になぞった声で出水はねだった。

太刀川が外したカバーを手渡してやると「あざあっす」と、やっぱり軽い調子で言って、なんでもないように笑った。今にも割れそうな薄氷のうえに立ちながら。

どうして、なんて聞くのは野暮だし、出水がそうまでして隠したかったものを暴きたいとも思わなかった。太刀川にとって出水の願いは叶えるものだ。隠したいのなら、一緒に隠す。秘密にしたいのなら、誰にも言わない。

ふと、くれてやったあのカバーを出水はいつまで持っているのだろうか、と思った。こうやって思い出すほどには自分だって忘れていたくせに、いつか捨てられているかもしれないと思ったらすこし悲しくて、そんな自分に気づいて驚いた。これじゃまるで俺がふられたみたいだ。
蟀谷から流れた汗が首筋をつたう。窓から離れ、手っ取り早い冷気を求めて冷蔵庫にむかった。
「あ」
扉をあけると食べそびれたプリンが3つ並んでいた。

END