練習場として借りている本日の私立中学校の運動場には、自分たちの他に学生らしき人影は少ない。
いくら今日が日曜とは言え、部活動のひとつやふたつやっていてもよさそうなのに。そう口にしてみれば、大きな瞳に「したくてもできないんだろ」 と、ため息交じりに言われた。
何で、と目線で訴えたけど、俺だって、と小さい独り言が聞こえただけだった。その意味が分かったのは、その日のソウル選抜戦を控えて素晴らしくハードに組まれた練習メニューを全て終えてから。雪こそ降ってはいないものの、吐く息は当たり前のように白い。全速力で走ってきた若菜は素早くドアノブを回した。
「……お前ら何してんの」
小刻みにシャープペンシルの芯をノートへ擦り付ける。乾いた音が反響している規則的な空気。自分が開けたドアは、確かに自分たちの着替え用の部屋のそれであり、それ以前に着替え用の部屋を宛がわれる理由は至極明快「サッカーをしていたから」。そしてもっと言えば、自分たちはサッカーをするために来ているはずだから。
「なにって」
「見てわかんない?」
視界を埋めるのは、何ら変わらない教室の机、そこに広がるノートや筆記用具やら問題集やら。
それに自分の表情の意味が分からないと言った感じの守護神、ひどくかわいらしく創られた顔に眉を寄せるセンターバックが既に着替えた状態で座っていた。
「「勉強」」
着替え用に借りただけの教室は本当に「教室」そのもので、義務教育期間真っ最中である自分には随分と馴染みのある空間だった。だがその中で、「サッカー」という媒介を通してしか繋がっていなかった目の前の人間たちが、サッカー以外のことをするのを目の当たりにして、その違和感がぬぐえない。
「そこでバカみたいに突っ立ってないでくれる? 暖房逃げんだけど」
「しかも俺らが入れない」
そのまま呆けていると、更に眉間の皺を増やした椎名と、真後ろで聞こえる英士の言葉でようやく我にかえる。悪いと言って身体を室内に滑らせれば、一緒に帰ってきた二人もそれに続いた。最後に一馬がドアを閉めたのを見届けてから、椎名は再び視線を落とす。
その視線を無意識に追ってみれば、たどり着いたのは神経質な椎名らしくきっちりと英文で埋まったノート。それが筆記体だったことに、なぜかとても納得してしまった。
「ほんとに勉強してるし……」
「あれ、でも藤代はテスト終わったって言ってなかったか、いろんな意味で」
何気に藤代や渋沢と自分たちの面識は長く、自分のエナメルバッグの中身を広げながら一馬が振り返って言って寄越した。
「ああ、ウチは期末なら先週までで終わった。藤代は、まあいろんな意味で」
でも一応エースストライカーを欠いての大会出場は免れた、と渋沢は持っていた赤いボールペンをコツコツと鳴らして机に落とす。
汗と土で汚れた練習着を一気に脱ぐと、近くの椅子を引っ張ってきてまじまじと光景を眺めた。暖房が効いているのでそんなに寒くは無いが、ジャージを羽織ろうか考えていると、英士が俺の黒いジャージを投げてくれた。
「風邪引くよ」
「さーんきゅ、あとタオルと生茶とって」
「調子に乗らないの」
「若菜、気が散る。とっとと着替えろよ」
正面からやたら大きい瞳に睨みつけて、椎名の視線はすぐにノートへ落ちる。一瞬怯むが、何だかんだで慣れたものだ。
黒川ー、お前のとこのお姫様こわいよー。そんな念をとりあえず送ってみながら、黒板の前で着替えている本人と目が合った時点で素早くそらされた。
「くーろーかーわー」
「マサキ! ちょっとこのバカつまみだしてよ」
俺と椎名に呼びかけられた黒川の肩が少し下がった。後姿でも分かる、アレ絶対ため息吐いたな、と思った。それを肯定するかのように、隣で畑が笑っている。その間にも、椎名のシャーペンはすらすらと動いていた。
「飛葉はまだ試験中なの?遅くねえ?」
真っ黒なトレーナーをかぶった黒川が机に近寄ってきたので、目線を上げて問い掛ける。いつもは緩やかな動きのある黒川の髪が、服を着たせいで少し寝ているのが面白かった。それに気づいた黒川が、左手でくしゃりと髪を混ぜる。
「や、試験は一昨日終わったけど」
「え? じゃあ何、椎名追試? 仲間?」
ピシリ、と纏う温度が下がった空気に、明らかに「バカ」と動いた黒川と英士の唇。そしてシャーペンが机に転がる音が響いて。
「若菜、この僕に向かってそういうこと言っちゃう、お前の頭の構造が心配だよ。いくら自分に身近だからって人を、それもこの『僕』を巻き込まないでくれる? 追試だ? んなもん一生関わりなんて無いっての。そもそも習ったことしか出ないような学校の試験で追試なんて、制度を作る意味すらないと思うんだけど?」
極上の微笑みから繰り出される、椎名の言葉の殺傷力は相変わらずだった。
数秒前に吐いた己の言葉の後悔の嵐に揺られながら、それを増徴させていく言葉たちがBGMになり始めた頃に、渋沢が笑いながらプリントをめくる。
「椎名は年末の模試の総合成績上位者に名前載ってたぞ」
最後に適当に鼻を鳴らしてから、ようやく口が結ばれる。そして再びシャーペンをとって広げられたノートに向き合って迷い無く右手を動かす椎名を遠い目で見つめた。
渋沢、ソレあと1分くらい早く言ってほしかった。
「まぁね。そういうアンタのとこだって、結構いなかったっけ?」
「おそらく載ってるのは、選抜クラスだろうな。俺の周りは一点主義の奴の方が多い」
「そういや三上は数学で見た気がする」
「数学はな、あいつの総合順位は倍どころじゃないぞ、多分桁が違った」
「へー……そういう渋沢は?」
「運がいいと、総合の最後の方に」
「お前らしいね、器用貧乏」
目の前で繰り広げられる会話に、若干の違和感を持って記憶をたどっていくと、そもそもの疑問を思い出した。
「え、じゃあなんで勉強してんの?」
「は?」
俺を椎名が本気できょとんとした目で見てくる。ただ分からないというよりは、信じられない物を見るような感じで。
とりあえずバカにされたことだけは分かったので反論しようとするが、その前に今までずっと沈黙を守っていた英士がぽつりと零す。
「フツーに受験勉強でしょ」
「、じゅけん」
独自のワンテンポ置いた後で話す英士の言葉を自分で反復させると、ひどく子供っぽい口調になってしまった。うわ、絶対今のひらがなだったし、と間髪入れずの鋭い言葉が自覚と共にふってくる。口でこのセンターバックに勝てないことなど承知済みで、椅子にもたれかかりながらバランスを取って。
「だって、受験とか来年だし。なー、一馬」
味方を作ろうと真後ろでカバンの中身を整理している幼馴染に声をかければ、まぁな、とか適当な相槌を返される。
その一馬の荷物のある面積がさっきよりも減っている気がしたので、英士の方もちらりと見れば、あとはジャージを羽織るだけという格好で。そろそろ自分も用意をしなければと立ち上がった。砂まみれになったソックスは脱いで、もう一枚の方のタオルで脚を拭く。完璧に取り除くことは不可能だから、不快感がなくなるまで適当に。
母親に何度も何度も注意されていたが、この寒い時期水で洗う気にはなれなかったからしょうがない。洗濯に出す前、こっそり部屋の窓からはたこうと考える。
「武蔵森って高等部あったよな、そっち行かねえの?」
「行くよ、このまま。だけど一応進学試験はあるから。それなりのことはやっておかないと」
黒川がふと思い出したように尋ねると、はっきりと渋沢は自分の道を告げた。
丸つけを終えたらしいプリントを机に滑らせた渋沢から、その紙をすいと取り上げて軽く眺めると、椎名が口角をゆっくりと上げる。
「おー、意地の悪い問題揃ってんねー、えげつなーい」
口でそんな悪態を吐いていながらも、椎名は真剣にプリントと向き合っている。左手の指を唇に当てて、まっすぐに紙を見ていた。
「なに、それ」
「進学試験の過去問を集めたプリント」
「ふーん」
上から覗き込むようにして、英士も視線を紙に落とす。
滑らかに動いていた椎名の瞳が止まったのと、渋沢が他のプリントをまとめ始めたのは同じ瞬間だった。
少しだけ眉を寄せて目を細める。試合中、ボールを持った相手と対峙するときに似ていた。
「ちょっと、渋沢コレ借りていい? あ、提出ある?」
「あるけど、来週だな。それまでに返してくれるなら構わないけど」
大きめのファイルにそれらを挟んだ渋沢が、それならファックスしようか、と視線を右へ向けた。その先では鳴海たちと遊んでいる彼の後輩の姿がある。間宮は着替えていたものの、藤代はまだアンダー一枚だった。
「マジ? 頼める?」
「いいけど、そんなに気になる問題があったのか?」
渋沢は視線を戻して、差し出されるプリントを受け取るとファイルに挟みながら軽く眺める。
「ん、問9。お前が手も足も出ないで、挙句使う公式すら間違ってるやつ」
「送ってやらない」
「冗談、頼むな」
軽く笑って、椎名は銀色のシャーペンをくるりと回した。
「ウチの番号っていうか玲の番号、分かるよな」
肯定を示した渋沢に頷きかえすと、番号を書き込もうとしたらしいルーズリーフを元に戻す椎名を横目で眺めて、何だかよくわからない気分になった。
「なんか、変なの」
たまらずそう呟くと、渋沢が一瞬目をむいて、それから笑った。
「若菜は進路決めてるのか」
「や、まだ全然わかんない。つか、それ以前に受験とか全然未知。そんで勉強したくない」
本音、というか進路に対しての質問は常にこの言葉しか返していない。先日行われた進路調査にも、正直に不明に丸をつけた。
「ユースは続けるんだろ?」
「もちろん」
その問いかけに迷った事はなくて。だけど、サッカーと学校が切り離された環境に居た自分にとって、同じ「先のこと」という認識ができない。面倒だな、と心底思う。
「俺はサッカーできればいいもん」
「そのサッカーするために、やってんだよ」
小さく、だけど強く呟いた椎名と、肯定するように笑った渋沢がやけに遠くに感じて、何でか胸がどくんとした。
「結人、そろそろ行くよ」
「あ、おぉ」
英士の言葉で我に帰って、慌ててエナメルバッグを引き寄せる。スパイク入れとレガース、それとタオルを詰め込んだ。
もうちょっと整理しろよ、なんて一馬の声をいつものように聞き流すとジャージのファスナーを思い切り上げて、エナメルのショルダー部分を勢いよく掴んで立ち上がる。
ずらしてしまった机の位置を直すとき、その表面に小さいアイアイ傘の落書きを見つけた。前にクラスの女子が書いていたような傘の上にハートはない、シンプルな物で名前はフルネームで書かれていた。両方の名前の字の筆跡が同じだったから片思いなのかもしれない。
「じゃあお先」
残ってるメンバーにそういう言って、ドアへ小走りに向かうと、俺を急かした張本人である英士が、静かに立ち止まって振り返った。その肩にぶつかりそうになって、反射的に脚が止まる。
「ちょ! 英士、急に止ま」
「椎名、渋沢」
不満を漏らそうとすれば、それもまた英士によって遮られる。それがどこか妙で、呼ばれた二人のように俺も視線を英士に向けると、先頭にいた一馬も振り向いていて一瞬目が合った。
「がんばって」
ほんの少し、ズレを感じるか感じないか、そんな本当に小さい間のあとで、渋沢の「ありがとう」と椎名の「おう」がダブって響いた。いつものように表情の読み辛い顔で、そして英士は何もないようにもう一度前を向いた。
一馬が再びドアに手をかける。吹き込んできた外の空気はさっきよりも冷たかった。
「びっくりしたよ、俺」
地球温暖化、暖冬、そんな言葉を繰り返されても、寒いものは寒い。
駅までの道。手袋を忘れた手をポケットに突っ込んで、隣を歩く英士に向かってそう言った。
「何が?」
「さっき、椎名と渋沢にがんばれって言ったの」
「あ、実は俺も」
一馬の同意を貰って、もう一度「うん、びっくりした」と呟けば、今度は英士の方が腑に落ちないと言ったような顔をした。
「受験生にエール送ったのが、そんなに?」
なるほど、そうやって聞くと別に何でもないような気がする。だけど、確かに自分は違和感を持ったのだ。
「そのこと自体じゃなくて、えっと、なんて言うか」
結局自分じゃ説明できないので「タッチ」と一馬の腕に触れた。そして腕を胸の前でクロスさせてバリア、と言う。
ええ、俺!? といきなり振られた一馬が混乱しながらも、英士の視線を受けて言葉を探す。
「や、結人の言いたいことは分かんないけど、俺は……」
「一馬は?」
「英士のがんばれ、がなんか、分かってるがんばれだったから、それにびっくりした、のかも」
一馬の言葉は、いつもすごく一生懸命だ。もともとが不器用な奴だから拙いときもあるけど、真摯に話そうとする姿勢がすごく好きだ。そして真剣に本意を汲み取ろうとする英士も。
「俺が、何を分かってたの?」
「えと、あいつらが、がんばる意味っていうか、がんばる大変さ、とか?」
「あ、俺もそれかも。なんか適当じゃなかったから」
はっきり気持ちよく不思議さが解決したわけではなかったけど、一馬の言葉は俺のわからない部分の輪郭を示してくれた。
「そう、適当じゃなかったんだよな?」
「ん、だからそれにびっくりしたって感じ?」
既にほとんどシャッターが閉まっている商店街を抜ける。信号が赤になって立ち止まった。
感覚の共有だけはできた俺と一馬はやたらそんなことを繰り返すと、考え込んでいた英士が口を開く。
「二人の答えになるかは分かんないけど、俺ががんばれって言ったのは」
英士はそこで言葉を区切った。区切ったことに意味があるのかと思ったけど、目の前をゴーっと走り抜けるトラックを見て思い直す。これじゃ聞こえない。英士があとで、と口パクしたのが見えて、一馬と一緒に頷いた。
「渋沢のプリント」
車の音が止んで横断歩道を渡りながら、ようやくさっきの続きを口にする英士は、言葉を探しているようだった。はっきりしすぎてる、と評判の英士にしては珍しいことだ。
「渋沢のプリント、って椎名がファックス頼んでたやつ?」
話してた声しか聞いてないけど、と続ける一馬に英士は頷いた。
「あれ数学だったんだけどね、チラッと見たら問題すごいレベルだったんだよ。俺数学好きだし結構得意だから、二人がひとつ上って分かってても驚いた。椎名がかなり頭良いことも、武蔵森が文武両道なのも知ってたけど、はっきり実感したの初めてで」
数メートル後ろでは、また信号が変わって煩くなった。英士はゆっくり、だけどしっかりと言葉を紡いでいく。話を始めたときの、曖昧さはもうない。
「俺の一番はやっぱりサッカーだし、あの二人もそうだと思うけど、一番だけやってればいいってわけじゃない。あの二人の環境は特に。別に偉い訳じゃなくてそれを選んだんだから、それが普通なんだと思うけど。だけど好きな事のために、直接じゃない努力するのって純粋に大変だと思ったから」
だから、がんばれ?一馬がぽつりとその後を繋ぐと、英士は頷いた。
「何となく、分かったかも」
「俺も」
やっぱり相変わらずうまく説明はできないけど、英士が言いたいことと、俺と一馬が感じたものが掴めた気がした。
「まあどっちかと言えば、結人の方ががんばれ、だけど」
来るときは付いていなかった駅のランプが見えてきたところで、英士が他意を含んだ笑みを見せた。
「え?何で?」
「おばさん言ってたよ、3年になったら塾かしらーって。俺もdogとbag間違えるのはどうかと思うよ」
「結人、勝手に話作ってたろ。シンディーがバッグ取られて、捕まえて、ガッツポーズした、とか」
「おまえら、答案見たの!? うっわ、最悪」
笑う英士と一馬を、それから母親を恨めしく思いながら、とりあえず椎名と渋沢と、それと木田と谷口と内藤が次に会うときに望んだ先を手にしているといいなと思った。