KISS in the room

「藤代ー」
「なんですかー」
やけに間延びしてしまった呼びかけを当の本人は全く気にもせずに、それどころか輪を掛けて長い応答を示してくる。
くるりとパイプ椅子をまわせば、藤代のさながらここ(体育会系の先輩部屋、しかも不在ではあるが同室者は部長だ)が自室であるかのようなだらけきった姿が飛び込んでくる。

(しかもそれ俺のじゃねえか)

うつ伏せに寝転がる奴の目の前に広がるサッカーダイジェストに三上は反射的に眉をよせた。
そんな三上に気づく事もなく、藤代は残りわずかの溶けかけたアイスを注意深くくわえ直す。
「知ってたけど、お前って無礼者だよな」
「うん……へ?」
適当な相槌から一瞬間が空いてからの、幼い顔。ぐりっとした目に浮かんでいるのは正に子供が向ける「なぜ」そのものだ。
「あぁ! もっと早く言ってよ、一口くらいならあげたのに食べ終わちゃいました」
アイスの棒をふってみせた藤代に返す言葉を失った。
もういい、と椅子を先程とは逆に回転させれば解き終わった英語のプリントに目を落とす。もう一度ざっと見直して、クリアファイルにはさもうとしたところで気づいた。
壮絶な噛み合わなさに忘れてしまった、この男の名を呼んだ理由を。そして入寮当時から備え付けられている時計を見ながら再び声を掛けた。
「なあ」
「はーい?」
ぱさりと雑誌をめくる音が落ちる。プリントはファイルの1番前にはさんで渋沢の机に滑らせた。これで古文の借りは返済できる。
ちなみに当の本人はと言えば食堂で突発的に始まったディフェンス会議中だった。レギュラー6番を担う藤代の同室者ももちろん参加中。

(時間的にも、状況的にも、本番は無理だな。)

「キスしてい?」
「いッ!」

意味を持たない声と、ごん、という鈍い音が合わさった。頬杖を付いていた藤代の顎がフローリングの床に直撃。
思いの外痛かったのか、そのまま突っ伏している藤代に三上は壮絶に呆れた視線をやった。

「お前一人遊びうまいな」
「い、たい……」
「いーい音してたぜ」
「アゴじんじんしてるし、てか、先輩、何してんスか」

ようやく顔を上げた藤代は涙目で、そしてようやく俺の異変に気づいたらしい。

「何って見りゃわかんだろ」

藤代の右腕を掴んでごろりと仰向けにしてやった。ぱちぱちと瞬く目と視線が合う。その上に素早く覆い被さると藤代の顔近くに両肘をついて三上は笑った。

「襲ってんの」

涙の名残がある目尻を舌先で小さく触れると藤代の瞳孔が開いて面白かった。

「え、三上せんぱ」

状況を把握できずに瞬きを繰り返す藤代を可愛いと思った。毒されてるのは自覚済みだ、末期なんてのも分かってる。
小さく空いている唇の形を確かめるために、上唇を丁寧に舐め上げた。女が口紅を塗るみたいにしてもう一度視線を合わせて返答を待つ。
まつげが鳴る音が聞こえるくらいの至近距離。ああ楽しい、と思いながら三上は今度はふっくらとした藤代の下唇を自分の唇で小さく挟み、そしてそのままゼロの距離で尋ねる。

「キス、してい?」

藤代の腕が腰に回った。

「どうぞ、してください」

藤代の目が欲情したのが分かった。

目を閉じて、ぴったり唇を合わせる。三上は求めたそれを感じることに全身系を集中させた。
欲しかったものの中に、今自分はいる。ああ、やばい、と思う。
――――――めちゃくちゃこれが欲しかったんだ。

「ん、く……んぅ」

決して噛み付くようなものではない口付けだった。いつも飢えを満たすような行いの藤代と自分にしては珍しい。ひとつひとつ、ゆっくりと、余裕を残して進むような、そんな長い時間の為のキス。
だからこそ、その先にある熱情を知っているから、2人は知らず期待をしてしまう。

境界線を越えたのは、何度目かの息継ぎの後。

「……んぁ」

もうういいだろ、とでも言うように藤代は既に接している三上の頭をぐいと自分に押し当てる。そして『らしい』口付けへと移った。

「ふっ……ん…んぅッ」

息を吐く音と、くちゅくちゅと鳴るいやらしい音。
うっすらと開けた目でちらりと三上を見やれば、脚ががくがくと震えている。そんな三上の限界を知りながら、だが藤代は首筋に回した腕を緩めない。そしてまた、三上も離れようとはしなかった。

「んっ」

そして遂に、かくんと脚が折れ、そのまま三上は藤代に身体を預けた。

「だいじょぶ?」
「ん、ワリ」

ゆっくりと息を吸って吐く。頭がぼんやりしていることに藤代はようやく気づき、自分もかなり限界だったんだなと改めて思う。
黒髪が鼻を撫でてくすぐったい。まだ息の整わない三上の腰と頭にある手の力を少しだけ緩めた。

「三上先輩」

そしてそのまま三上のTシャツに手を入れようとした瞬間、腕の中のぬくもりが消えて信じられない言葉が響いた。

「うわ、11時。お前もいい加減部屋戻れ、明日テストあんだろ」

「……え?」

三上はさっさと唇を拭って起き上がる。その姿をちょっと色っぽいなあとか思って、そして頭を振る。
ちょっと待て、この人なんて言いやがった。

「え、ちょ冗談っスよね?」
「私はやりません」
「!? ちょ、ここまでやっといてそれはないでしょ!? 大体先輩から襲ってきたじゃんか!」
「俺はキスしていいか、って聞いたんだよ、やりてーとは言ってねえ。つかお前も同意したじゃん」
「屁理屈って先輩のためにある言葉ですよね……って俺ヤられ損じゃないッスか! 絶対やだ! 絶対やりたい!!」
「損ってなんだよ、俺が悪いみたいに言ってんな」
「悪以外の何者でもない! 俺の純情を弄んだんですか!!」

会話を続ければ続けるほどに、三上のやる気の無さを実感してしまう己を感じて藤代は焦った。
このままではまずい。非常にまずい。

「ただいま」

――――――まさか。壮絶な速さでドアの方へ振り向いた藤代が捕らえたのは、この部屋のもうひとりの主。
予想通りな三上と完璧想定外な藤代は面白いくらいに対照的だった。

「ああ、藤代来てたのか、ってどうした!?」

ぱっちりとした大きな目を更に見開き、この世の終わりのような藤代の表情をいきなり突きつけられた渋沢が驚くのも無理は無い。

「オカエリィ」
「あ、ああ、ただいま。お前ら何し」
「何で!!」
「何がだ!?」

――――――よりによってこのタイミングで!!
藤代は困惑する渋沢と笑いを耐える三上を交互に見遣り、ひとり状況の圧倒的不利を悟った。

「先輩なんかきらい……」

絶望してそう呟くと藤代は打ちひしがれてしゃがみこんだ。抱えた腕の隙間から少しだけ渋沢と笑いあう三上を盗み見る。
もう無理だと分かってるし、往生際が悪いとは思ったけど、それでもやはり全てを意のままにされて、恨みがましい視線を送った。どうせバーカ、みたいなムカつく顔をしているのだと思ったのだ。

だが、顔の見えないはずの藤代へ向けられた視線をたどれば、あまりにも希少な。

(その顔は反則だろ……っ)

そこにあったのは彼がよくしている挑戦的で皮肉っぽいものではなくて、何だかとてもふんわりしていて。
瞬間、心臓がいきなりどきどきして、顔に血が集まるのが分かった。

何だよもう笑ってんなよ、人のこと散々だまして笑うとかひどいだろ。わがままだし、俺様にもほどがあるんじゃないのか。最低だ。絶対ドラえもんの声優が次に変わるときは先輩がジャイアンだ――――――――――畜生、好きだ。だいすきだ。

ああもう、勝てない、と藤代は腕の力をぎゅっと強めて顔を埋めた。

しぶしぶ藤代が出て行った部屋は、本来の2人きりになった。

「会議何話してたんだ? 今別に連携問題ねーだろ?」
「別に会議じゃないよ、欠点教えあい的な雑談とこの前の試合の話。あぁ、プリントありがとな」

ファイルからそれを抜くと、渋沢は自分のブルーのバインダーから白紙の同じものを取り出した。
そんな渋沢に適当に相槌を返すと、三上はベッドに寄りかかって床に開かれたままの状態で投げ出されたサッカーダイジェストを拾う。

そしてページも捲らずにすぐさま思い返してしまう自分に笑った。

涙が溢れる一歩手前。赤い顔してそれを耐えて。―――――――やばい凶悪だ。

だめだ、かわいい、と三上は雑誌を閉じた。

「ちょっと自販行ってくるわ」
「今から?もう電気落ちてるんじゃないのか?」

プリントを必死で写す背中にそう言えば、渋沢は腕時計に目をやってそう答えた。寮の設備はそれぞれ時間で切られてしまう。
雑誌はベッドに放って、立ち上がる。

「走ればいける」

そして自然と笑う口元を抑えながら、三上は部屋を出た。