お楽しみの嗜み

二十三時をまわる少し前。黄瀬はぼんやりとテレビを眺めながら日本酒をあおっていた。赤司からもらったその辛口の酒は、のみやすく旨い。少し前に奮発して購入した鉄砂の黒い猪口の口触りとも相性は抜群だ。さすが赤司っち。
中学時代の鬼主将を思い出してうなづきつつ、黄瀬はテレビの下のレコーダーのデジタル時計を一瞥する。同居人が帰ると言っていた時間まであと五分、と、そこで玄関から錠の外れる音がした。
ソファの背もたれにもたれ掛かり、首をめいっぱい反らして扉が開くのを待つ。だらしない体勢は、丸まっていた背骨が延びてきもちがよかった。
「ただいま」
「ん、おかえり」
外が寒かったのか、子供みたいに鼻を赤くした火神は肩にかけていた真っ赤なエナメルバッグをフローリングへ下ろすと、そのまますぐに黄瀬の方へとやってきて、額に口づけた。
「ん」
降りてくる唇を当然のものとして受け入れた黄瀬は、しかしその冷たさに眉をひそめる。
「うえ! つめたい!」
「そりゃそうだ」
からからと笑いながら黄瀬の髪を荒く撫でて、そのまま火神は洗面所へ向かう。彼の背中を見送りながらソファに座り直した黄瀬がテレビのスイッチを切ると、がらがらがら、と豪快にうがいをする音がよく聞こえた。
「飯は?」
「食ったよ」
通例になったその会話を今日も繰り返す。火神は昨年の誕生日に黄瀬が贈った腕時計を外すとテーブルへ静かに置いた。
「あ、ズリィ。あけたのか」
「うまかったっスよ、辛口だから今度魚料理作って」
「おー」
言いながら黄瀬の持っていた猪口をひょいとうばった火神は、そのままそれを口へ運ぼうとする。「わっ」
「あ、ばか!」
しかし火神が口を付けようとした寸前、波打った液体が彼の右手と口の辺りを濡らした。なみなみ注ぎすぎていた自分の非は棚に上げ、黄瀬は火神の指と口端から垂れる滴を呆れて見つめる。
「あーあ」
こぼれた酒が火神の唇や手のひらをつたい、したたっていく。まったく、高い酒なのに勿体ない。
「ったくもー」
黄瀬はソファの肘掛けに手をついてのびあがった。猫のように背中をしならせると、まずは火神の首筋に舌を寄せ、音を立てながら垂れてきた酒をなめる。
そして、そこから辿るように舌を動かす。黄瀬は更に背を反らした。
「……っ」
そのまま唇を合わせてやろうとした黄瀬の目論見は、しかし火神のとった微妙な距離のせいで上手くいかない。もっと屈めよ、と言外に込めて黄瀬は彼の喉元をもう一度舐めあげて軽く歯を立てた。まるで果物でも頬張るような自分のやり方に、火神が笑うのが分かる。
火神の肌を舌で味わうのが黄瀬は好きだった。言葉にしたことは、多分ないと思うけれど。
「お前ががんばってベロ出してんの、かわいんだもん」
「……そりゃどうも」
火神は恋人に向けるに相応しい柔らかい表情をたたえている。だが、しかしこの距離で相対してみれば、黄瀬を捉える両の目の奥が、爛々と光っていることくらいすぐにわかる。
黄瀬はもう一度、額を寄せて口づけをねだった。
「あ、待て」
だが、すぐに舌を絡めとってやろうと近づけたそれは、あと2センチというところでまたも止められてしまう。
「は? なに?」
「こっちも」
差し出された右手。未だ酒がしたたっている、恋人の手。
「……ったく」
黄瀬は形だけの溜め息を吐くと、すぐにその掌をぺろりと舐め上げた。上下の唇を使ってすべての指先をあまく挟んでから、人指し指を選んで思い切り吸った。
指の股ぎりぎりまでくわえ込んで、骨のあたりを優しく噛むと、褒美だとでも言うように上顎を撫でられた。首筋が粟立つ。
「んっ」
「犬みてえ」
「は、にがて、な、くへに」
火神はようやく自分の隣へと腰を下ろした。唇の奥へ中指と薬指も入れこまれ、ばらばらにかき回されたかと思えば、身体をおさえるように左手を添えられる。黄瀬の口の中で、火神の三本指の腹が揃った、と理解した瞬間、するりと上顎を丁寧になでられた。
「っ!」
びく、と反応した動きを軽く抑えつけられて逆立つのは被虐心だ。
「ひっ、ぁっ」
「ん?痛くねーだろ?」
「ほうゆ、もんらい、じゃ、…くて…ッあ!」
急に耳朶をくわえられた。かと思うと火神の舌の先が、黄瀬のピアスのリングの中に入る。ピアスホールが引き連れる感覚に、黄瀬は身を強ばらせた。その拍子に火神の指に歯を立てそうになり、慌てて口をあければ銀の糸がつうっとスウェットへ落ちる。
「ん、…っあっ、あ」
「だーいじょうぶだって」
黄瀬のピアスを揺らし続けていた火神は屈託なく笑う。それを恨めしげに睨んでやれば宥めるように瞼に口づけを落とされた。舐る水音に混じってかちゃかちゃと鳴るそれを気にしつつも、さすがにリングを引きちぎるようなことはしないだろうと思いながら、黄瀬は火神の髪を乱暴に撫でてやった。自分とは違う固いその触り心地を楽しんでいると、火神が甘えるように黄瀬の首筋に額を寄せる。「きーせー」
「んー」
大型犬のようでかわいい、という評は高校生時代の自分の専売特許であったはずだけど、なるほど騒いでくれていた女の子の気持ちが分かる。ああ、かわいい。身長190オーバーのごつい男が誰よりかわいい。そんな浮かれた頭で、もう一度髪を撫でてやろうと思い手を伸ばした―――刹那だった。「―――ッ!?」
がちん! 激しく鳴った音と振動に、黄瀬の肩が大きく跳ねる。
「っ、ちょっ!? っなにして、んの」
そのままぐっと、抱きしめられた。締め付けがきつい。火神は力加減をしていない。身体が自由にならないことに反射的に恐怖を感じて、思わず全身が強張った。火神は何も言わない。その代わりに、かちかち、と鳴らされる音とかすかにひきつる肌で理解する。今黄瀬のピアスは、火神の歯と歯のあいだにいる。咥えられて、いる
「ばか、お前! それ反則ッ!」
だから。つまり。もしそのままひっぱられでもしようものなら。思わず描いてしまった想像に血の気が引いていく。黄瀬の耳のなかに火神の鼻先がふれる。雰囲気で笑ったのがわかった。
「マジやめろ、それずるい…ッ!」
声に余裕がなくなったのが分かる。悔しいと思ったのと同時に、火神はぱっと黄瀬のピアスを解放した。びびった? 楽しそうに尋ねてくる男を呆然と見つめていた黄瀬は、そしてすぐに眉を寄せて乱暴に舌を打つ。
「おいお前年々ガラ悪くなってねえか」
「だまれバカガミ」
ちくしょう、今日はちょっとスキンシップして、もう寝るつもりだったのに。どうしてくれる。スイッチ入っちゃったじゃん。
「っとに、アンタのせーっスよ」
火を点けた責任は本人に取ってもらうしかない。黄瀬はソファから立ち上がって、金の髪を左耳に掛けた。
「……きせ?」
「舐めたい、出して」
「……お前ほんと舐めんの好きだな」
「うっさい」
ろくに火神の返事もせずに、黄瀬は彼の脚のあいだへしゃがみ込むと、慣れた手つきでベルトとジーンズを勝手にくつろがせていく。すると火神が甘やかすように黄瀬の頬を撫でた。ジーンズも下着も完全には脱がせず、衣服の隙間をかいくぐるようにして雑に取り出したそれを、黄瀬はわざと拙くぺろぺろと舐める。そうやって愛しい男の輪郭を存分に確かめるようにしてから、そしていよいよ口いっぱいに頬張った。
「…っん、んん」
中に入れられる時とは違う快感が、喉の奥から黄瀬を襲う。ぞわぞわと足の裏から頭の先に向かってしびれ出す。息がうまくできないし、己の唾液か火神のものか分からないものが口の端をどんどんと垂れている。既に熱く固い火神のそれをしゃぶるたび、腹の下に血が集まった。浅ましい、も、はしたない、も、きっと今の自分のことを指すのだろうな。そんなことと思うと、またぞくっと背筋に快感が走ってたまらなかった。
「黄瀬」
どれくらいそうしていたかは定かではないが、口の中の火神が脈を打ったタイミングで名前を呼ばれた。黄瀬は涙目で首を縦に振りながら、喉が動かないように気をつけて腕に力をこめる。
ほら、すきにしていいよ。
そう目で訴えれば火神は一度髪を撫で、そしてそのまま、てのひらが後頭部に添えられた。くる。身構えていても頭の後ろを抑えられながら雄を叩きつけられると、もうそれを味わう余裕はない。「ん…っ」
小さく呻いた火神の声を、耳の奥の奥で聞く。
口の中に弾けた恋人の味を感じるより早く、喉の奥の熱さにめまいがした。ひっぱり上げられるようにして火神の膝の上に乗せられた黄瀬は、スウェットをたくしあげようとする彼の掌を、息も絶え絶えにゆるく制止した。
「俺、は、いいっス」
「なんで? 勃ってんじゃん」
「っばかさわんな」
無遠慮に触れられて、黄瀬は思わず腰を引いた。
「我慢してんだから」
そう言うと、火神はあどけない幼子のようにきょとんと黄瀬を見上げてくる。先ほどまでの獰猛さはどこへやった、と内心笑いながら、火神の胸にすり寄った黄瀬は深く息を吐いた。
「明日女性誌の撮影なんスよ、抜かない方がエロい顔できるから、今日はおあずけでいっスわ」
背中で組まれた火神の両腕の重さがここちよい。
「お前って我慢すんの好きだよな」
「……ちょっと、今は俺の仕事への姿勢を褒める場面じゃないんスか」
「だって好きだろ」
「………」
「やりたいやりたいやりたいって思いながら、全然そんなこと考えてないって顔すんの、好きだろ」にやり、と意地悪く笑われて黄瀬は思わず瞠目する。気づかれているのか微妙なラインだとは思っていたけど、火神は思っていたよりもずっと黄瀬のことを見ていたらしい。
「………嫌いじゃ、ないけど」
黄瀬は悔しげにそう返した。火神が笑う。
「じゃあしょうがねえな。何時帰り?」
「ん?」
「だから、明日。そのエロい顔する仕事が終わんのは何時なんだよ」
唐突なその問いかけに黄瀬は一瞬呆けたが、すぐに火神の言葉の真意を理解して口の端を上げた。「あー、九時には帰れると思う」
だから、帰ってきたらぐっちゃぐちゃに抱いて。小首を傾げてそう誘えば、火神は子供みたいに屈託なく笑う。その彼の右の手のひらをとって、頬をこすりつけた。マーキング、みたいに。
「おう。めろめろにしてやる」
「ははっ、たのしみ!」
いやらしい約束をして、黄瀬は火神の人差し指にキスをした。