それもまた愛のひとつ

毎年、松葉寮では卒業式の前日に送別会が行われる。この大騒ぎには寮母さんも監督も目を瞑ってくれているので、俺たちの存分に夜中まではしゃぐことができる数少ない機会だ。
俺がこの飲み会で、初めて根岸先輩と話したのは乾杯の音戸から早2時間が経ち場がそれぞれ盛り上がってきた頃だった。
「笠井なにのんでんのー?」
杏露酒ですよ、とグラスのべっこう色を見せれば根岸先輩は「お、うまそお」と言いながら俺の隣にすとん、と座った。そんな先輩の手には缶の白桃サワーがある。
「一口いります?」
「ん、じゃあ交換」
はい、と缶を渡される。一応を礼を言って受け取るものの、アルコールの炭酸はあまり好きじゃなかったので口をつけようか迷う。
「あ、おつまみ、いりますか?」
「笠井はほんとできた子だよ、やっぱ白桃最後の1本だから俺飲んでい?」
「あ、はい、どうぞ」
慌てて缶を返せば、根岸先輩はさんきゅー!いいこいいこ!と鼻歌のように言って、俺の引き寄せた紙皿からきのこの山を摘む。炭酸を嫌っているのを顔に出したつもりは無いのに、この人ってこんなに聡い人だったっけか、侮れない。
「あ、でも笠井のも甘くてすきだった」
「果実酒ですからね、ちょっと薄くなっちゃったけど」
なんなら新しいの作りますよ、と俺は側にあったはずの瓶を探す。
「あ、ううん、いい。そうじゃなくてな・・・あのさ」
ふう、と短く息を吐く先輩を見て、俺は違和感を持った。このぴりっとした空気は、緊張で間違いなさそうだ。
「俺今から変なこというけど、真面目に答えろよ」
「なんというか、酔っ払いらしい難しい注文ですね、努力はしますよ」
バカと酔っ払いは受け流すに限る、ということを俺はもう嫌というほど理解していた。羽目を外しがちな上級生と類稀なる超人感覚を持った同室者のおかげだ。慣れたものだ、と自分で感慨深くなる。そんな俺の言葉を理解しているのかいないのか甚だ疑問だが、根岸先輩は、うん、と頷くとそのまま斜め右を指差した。
「アレ、しぶさわ」
先輩が指差した方には3年の先輩方が固まっている。そしてあれは渋沢キャプテンだ。うん、何もおかしくはない。誠二と三上先輩でポッキーゲームが始まった事も含めて、いつもの宴会光景だった。
「はい、あれは渋沢キャプテンですね」
「うん、……あ、でもやっぱいいや、あれは。アレはもうしょうがない」
「まあ、キャプテンは、しょうがないですね」
しょうがない、と諦められたキャプテンは我関せずの微笑みで薄ら寒いポッキ―ゲームを見守っている。
「うん、じゃああいつはしょうがないから、……あ、近藤、近藤見て」
言われたままに視線を流す。俺の瞳が近藤先輩を捉えたのを確認すると、根岸先輩は力強く言った。
「あいつさ、やさしーじゃん」
「……えっと、そうですね」
確かに、変わり者のマイペース人が多いこの学年で、近藤先輩は良心であったとも言える。
「よくお前らのこと見てて、大丈夫か、とか聞いてたし」
「そうですね、結構気遣ってもらってました」
それは確かにそうだ。人の良い近藤先輩は部活外に関する相談相手としても人気だった。
「そんで中西は、あいつは頼りがいとか仕切るとか安心とか、そういう次元じゃなくて、あいつ、話しずらいっていうか怖いっていうか、居づらいっていうか」
「……『近寄りがたい』?」
何となくニュアンスを汲み取ってみれば、根岸先輩は「そう、それそれ!」と笑う。
「近寄りがたいって、怖いだけじゃなくてさ尊敬みたいなのがあるわけじゃん。で、中西見てる1、2年てやっぱそういうのあるように見えんだよね」
「……それで」
「そんで、三上は基本ダメだけど、でも、あれは、まあ少なくとも試合だと」
三上先輩は高等部に上がってから、何度かポジションのチェンジやレギュラー落ちがあった。だけど俺の中でうちの司令塔と10番は結局あの先輩が負っているのが1番しっくりくるのが事実だ。
俺は相槌も打たないけれど、根岸先輩は最初と何も変わらない口調で更に同級生たちの話を続けていく。
「高田と大森もさ、DFが4枚でも3枚でも大抵どっちかがセンターじゃん。後ろの指示は大分渋沢がやってたけど、でもラインの管理はあいつらかお前やってたし。そういうのそれっぽいって思って。……ライン管理俺やったの5回無いと思うんだよね」
最後の一言でなんとなく根岸先輩が俺のところに来た理由が見えてきた。根岸先輩はもう一度紙皿に手を伸ばす。その手があたりめを摘むのを、俺は隣でじっと見ている。
「いや、別にそこはいいんだよ。俺サイドのが好きだったし、あいつらと張り合おうとかそういうのじゃなくてな」
俺の無言を勘違いしたらしい先輩は、ぶんぶんと顔の前で手を振りながら早口でそう続ける。今更ながら、この人の声は混じりけのないからっとした声だなあ、と頭の片隅で思った。
「そうじゃなくて、俺、お前らになんかできた?」
その混じりけの無いからっとした声が、最後はほとんど消えそうだった。俺が口を開くよりも前に先輩は寄せた膝に顔を埋めてしまう。
「人まとめんのとか、指示すんのとか苦手だし、つかあんま好きでもないし、勉強も強い科目あったわけじゃないから、教えたりとかできなかったし、だから」
ごめんな、と先輩は言った。
明るくて素直なこの人がそれに気にしていたなんて、俺はそのことに純粋に驚いた。確かにそういう意味で、彼は「先輩」らしくはなかったのかもしれない。だけど、それだけだ。

(あやまることなんて、ないのに)

先程彼が指差した方向に視線を向けて、再び隣へ戻す。みんなみんな、俺の365日の先に居た人たちだ。
「……俺は、そんだけあればいいってもんでもないと思い、ますよ」
俺の声に根岸先輩が膝に埋めていた顔を小さく上げて、こちらを向いた。俺はその視線を一度ちゃんと受け止めてから視線を前へと向けた。そして若干アルコールでぼんやりした頭を使って、できるだけちゃんとした言葉を作りたい、と必死になる。
「キャプテンたちみたいに頼りがいあったり、怖かったり、届かないとこに居てくれる人は必要ですし、特にウチみたいなとこにはそういう人がいないとダメだと思います。だけど、そんだけじゃなくて・・・試合でがんばろーって肩叩いてくれたり、中西先輩と三上先輩がマジ切れの喧嘩してるときに、まぁまぁって間に入って空気ちょっと緩くしてくれたり、あ、ネギ先輩ってあれ攻撃対象になること分かっててやってましたよね」
ちらり、と先輩を伺ってみれば、驚いたように目を見開いている。
「いや、まあそりゃあちょっとだけ」
「……それに、ここで6年間やるって結構そんだけですごいことだとおもうんですけど」

内輪贔屓かもしれないけれど、と心の中で付け加える。

「とにかく、それっぽくなくても、俺は、助けてもらってた、と思う。どっちが上とかそういうのじゃなくて」

根岸先輩は体育座りのまま、ずっとまとまらない俺の話に耳を済ませていた。
気持ちを言葉にするのは、どうしてこうも難しいんだろう。もっときっと俺のこの心情を根岸先輩があやまった原因の「それ」に上手に響かせられる言葉があるはずなのに、これが俺の限界だった。

(ていうか、畜生、恥ずかしい。こういうの苦手なんだよ。)

ちらっと隣の先輩を見れば、先程とはくらべものにならないくらいに瞳を見開いて停止している。ああもうその反応も恥ずかしい、と停止した空気に居たたまれなくなって顔を伏せた。さっきの根岸先輩と同じ体勢だということに気付いた。顔が熱いのは酒が回ってきたせいじゃない。

「うわ……やばい、泣きそう」

大分間があってから、まじまじと先輩は言った。多少、落ち着いた俺はなんでもないことを装いつつ顔を上げる。先輩は泣きそうと言いながら満面の笑みを浮かべている。俺もほっとして顔の筋肉が緩んだ。

「泣きそうって、そんなに自信なかったんですか」
「いや、お前が後輩でよかったって思って」

うん、よかった、ともう一度根岸先輩は繰り返す。泣きそうなのはこっちだよ、と思った。