三上亮のエクストリーム出社

真白いシャツにこぼさないよう気をつけてクロワッサンの最後の一口を食べ終えた。ホテルのロゴが入った柔らかいナプキンで指先をこすって、三上はそっと白い陶器に手をのばす。ふたつ並んだエスプレッソマシンのうち、濃いめを選んで淹れてもらったコーヒーは、まだしっかりあたたかかった。
水曜日の午前七時。ホテルの売りのひとつであるというビュッフェ会場にいるのはビジネスマンばかりだ。彼らはみな同様に四人掛けのテーブルを一人で占領しており、朝食のかたわら、新聞やら雑誌やらタブレットやらに触れている。
ゆらり。突然やってきた眠気に頭の奥がしろくかすんだ。三上は前触れなく襲ってきたそれを抑えつけるように、目頭をぎゅっとつまむ。気休めにしかならないことを知りながら。
昨晩眠りについたのは二時半ぐらいだったから、睡眠時間としては四時間弱と言ったところだろうか。導いたところで、何がどうなるわけでもない数字を持て余してため息をつく。今日のことがなくとも、ここのところ残業続きで規則正しい生活からはほど遠かったというのに。
小さく流れている歌のない音楽は、朝にふさわしく軽やかな曲調だ。だけど今の自分にとってその音の波は、ただ眠気を増長していくようにしか感じられず、三上は天井を仰ぐ。シャンデリアがまぶしい。
カフェインが効果を発揮してくれるのを待ちながら、もういっそ会社に向かってしまった方がいいかもしれないと考えついた。始業まではすこし余裕があるが、着いたら着いたで、やるべきことはある。
あぁ、そうだ、そうしよう。それで今日はもう早く帰ってしまおう。そう決めて三上は飲み干すつもりで再びコーヒーカップへ手をのばした。
「先輩、早起きすぎ」
瞬間、テーブルが小さく揺れてカップの中の液体が小さく波打つ。顔をあげた先で、部屋に置いてきたはずの男がおはようございますとやわらかく言った。
「おじいちゃんみたいですね、さすが三十路」
「だまれ」
藤代はあくびをかみ殺しながらためらうことなく俺の前の椅子をひく。自動的に三上が数秒前に立てた計画は実行されることなく中止となった。
「ていうか黙って行っちゃうとかひどくない?  起こしてくれればよかったのに」
くちびるをとがらせた藤代は、オリーブ色のセーターの袖で目をこする。
「仕事あるから先出るつったろ」
サラリーマンにシーズンオフはないのだと昨晩と同じことを説けば、言ってたけど、と曖昧に頷かれる。藤代のくわえたストローの中を、あざやかなオレンジ色がのぼっていった。
「あー……、だめだ、すっっっごい眠い……
およそ八時間の時差を飛び越えて、藤代は昨日の夕方、日本に帰ってきた。チューニングが合わないだけでも身体は大分しんどいだろうに、それに加えて眠りについたのも自分と同じくらいのはずだというのに。
だからせめてと、声をかけることはしなかったのに。
「部屋もう一泊とってあんだろ? ゆっくりしてろよ」
「んー……
昼まで寝てりゃいいのに。ひとり言のようにそう呟けば、藤代はストレッチの要領で首をぐるりとまわして、やだよ、と言った。
「だって三上先輩、明後日から出張なんでしょ」
人差し指でゆるく胸元を指される。それに素直に視線をたどらせた三上は、ネクタイの先が擦れそうになっていた平皿をよけた。
「俺、今日は夕方からインタビューあって、で、そのあとはバラエティの撮影で、そんで明日は協会行かなきゃなんですよね」
「へーえ」
指折りながら藤代は母国滞在期間の予定をとなえていく。インタビューだとかテレビだとか、まるで芸能人のようなスケジュールだ。そこまで思って三上は気づく。そうでした、そうでした。藤代誠二はそこらの三流タレントよりよっぽど名の知れた有名人でした。
「先輩がこっち帰ってくる頃には、俺戻っちゃうからさぁ」
だからがんばって起きたんですよ。さらりと付けくわえられた一言が、胸の奥にじわりと染みる。ちょっとくださいと訴えている目に雑に頷けば、藤代は遠慮なくコーヒーカップを傾けた。
「なに、見送りでもしてくれんの?」
「しょうがないからしてあげる」
藤代は歌うようにそう言って、三上にカップを返すと、もう一度オレンジジュースに戻った。
「そりゃどうも」
三上は組んでいた足をほどいて組みなおし、目の前のまぶたの重そうな男を見つめた。
会うたびにどこかしらが上等に変わっていくこの男と出会ったのは、十三歳のときだ。だからつきあい自体はもう人生の半分を越えている。
部活の後輩、部活の先輩。そう胸を張ってお互いを呼べた時期はとっくの昔に終わっているけれど、現在、自分たちにそれに代わる新しい呼び名はない。
たとえば、家族とか、親友とか、恋人とか、仲間とか。特別な名前やしるしを持つことなく、藤代と自分はここまできてしまった。藤代が俺のなににあたるのか。俺が藤代のなににあたるのか。
そういう言葉を、少なくとも俺は持っていない。

だけど。

海外移籍が決まった藤代を、空港まで見送りに行った帰り道で三上は静かに泣いたし、その二年後の真夏の夜には時差を無視してかけてきた国際電話で、藤代は細い声で、さびしいと言った。
そのあとも上司から有休消化を命じられたから、丁度旅行に行きたかったから、なんて誰に対してかわからない言い訳をしつつ海を越えて松葉杖の藤代を笑いに行ったこともあるし、辰巳の結婚話を三上のものだと勘違いした藤代が、日本にすっとんで帰ってきたこともある。
―――この状況だって、そうだ。
実は戻ってきてるんですけど、今から会えませんか。なんて連絡をもらったから残業続きの身体を押して三上はここに来たし、時差ボケと睡眠不足をねじふせて藤代はここにいる。
十七年のあいだに作り続けた状況証拠は、いくらでも出てくる。なんだかなぁ。端のよごれた紙ナプキンをもてあそびながら、三上はゆっくりと笑った。
お手上げだ。こんなのどうしようもない。
「先輩? どしたの」
「俺本当お前に金と時間と体力使ってんなって思って」
「惚れた弱みってやつっスね」
「言ってろ」
「もう行きます?」
腕時計を確認したことに目ざとく気づいた藤代にかるく頷き、三上は立ち上がってスーツに袖を通す。
お仕事がんばってー。藤代は満面の笑みを浮かべると子供のように手をふった。それに返した舌打はきちんと聴こえていたらしく表情に苦味が混じる。これから二度寝に戻るなら、これくらい受け止めやがれ。
「じゃあな」
「ね、先輩」
俺だって、いまさら離してあげらんないよ。
羽織ったばかりのコートの裾をあまえるようにつまんだ藤代の言葉に孕まれているのは、謝罪と、矜持と、それからありったけの。
いってらっしゃい。
くすぐったくなるくらいのやさしい声を背中に受けてそして三上はエントランスを目指した。

END