隊室あるっていいな。ソファの脇にカバンを置きながら部屋を見まわし、太刀川はそうつくづく実感する。ソロの頃からボーダー本部に入り浸っていたけれど、基地のなかに自分の名前がついた専用個室がもらえたことで圧倒的に便利になった。なんだっけ、東さんと沢村さんが前に言ってたきゅーおーなんちゃら。なんか過ごしやすいみたいなやつ。まあとにかく隊室がもらえたことで俺のそれは間違いなくよくなった。まじめに隊を組んでよかったことのひとつにカウントしていいと思っている。
脱いだ学ランをソファの背もたれにひっかけて、ズボンのポケットに入れたトリガーを確かめながらすぐにドアを目指して踵を返す。今日はついている。途中すれ違った二宮と三輪をランク戦に誘ったら、やけにあっさり承諾された。あちらもあちらでおそらく攻撃手相手に試したいことがあるのだろうが、こちらとしてはレアキャラが乗り気で対戦してくれるのは大歓迎だ。
鼻歌まじりに歩き出せば、最高のタイミングでドアが勝手にひらく。それがどうしてひらいたのか理解したのは、一歩大きく踏み出したあとだった。
「あ」
「いっ……っ!」
ドアを開けたのは出水だった。三つ年下の中学生の身体は当然こちらよりも軽く、ぶつかった衝撃の反動をもろに受けて出水はよろけて後ずさった。
「ワリ、大丈夫か」
「…………っ」
出水は黙ったまま俯き、なにかに耐えるようにぐっと身体を縮めている。真正面からとはいえ普通に歩いていたところに軽くぶつかっただけなのに、流石にそのリアクションは大げさではないかと太刀川は首をひねった。
「どうかしたか?」
だからそう尋ねたのは本心から出水を気遣ってのことだった。しかしようやく顔をあげたかと思えば、薄茶色の瞳にはあきらかに不穏な怒りが滲んでいて面食らう。
「え、は? なに?」
年下の部下とはいえ混じりけのない怒気を真正面から向けられたら怯む。理由に覚えがなければ尚更だ。思わず後ずされば、それを追いかけるようにずずいと出水が詰め寄ってくる。
「もう忘れてんすか」
「なにを?」
出水の背後で扉が閉まった。不機嫌を貼り付けたような険しい顔のまま、出水は先ほど太刀川がしたのとまったく同じように持っていたカバンを床に落とし、着ていたブレザージャケットをソファへ投げる。そして制服の白いシャツと中に着ていたTシャツの裾をまとめて勢いよくめくりあげた。
「……あ、」
いきなり眼前に晒された他人の素肌に面食らいつつ、けれど太刀川は「それ」を見てようやく出水の怒りの合点がいった。肉の少ない薄い腹には一か所だけ濃いむらさき色の痣がある。トリオン供給器官と呼ばれるところのすこし下、そこにある内出血の傷跡は間違いなく太刀川がつけたものだった。
「まだくそ痛えんですけど。やった側が忘れてんのありえなくないすか」
「いや別に忘れてはないって」
どうだか、とでも言いたげな疑いの目を向けてくる出水に太刀川は頭をかいた。
防衛任務を終えた帰り道だった。国近を家まで送り、京介と別れ、出水と二人で歩いていたところへ緊急アラートが入った。いち早く換装し、弧月を抜いた太刀川にセンターオペレーターから入ったのは「新種のトリオン兵が接近していること」「それはトリオン体への換装時に干渉、妨害する特性があること」という情報だった。思わず後ろを振り返ると、食べかけのコロッケをコンビニ袋にしまいながら、ポケットのトリガーを探っていた出水の足元には、小さなまるい闇が咲いている。ぞっとする間もなく、その黒い球のなかに蛇の舌のような赤く細いなにかがちらちらと光り、出水がトリガーを握った瞬間、それは歓喜するようににゅるりと伸びた。
旋空の間合い。生身の出水。換装にかかる時間。干渉の条件。指示を、出水に。
瞬間、太刀川は考えることを止め、言葉を捨てて出水の腹を弧月の柄で打った。ずるりと崩れ落ちた出水の身体をさらって抱きかかえた右手には、薄い腹を突いたときの感触がなまなましく残っていて、あまりの不快さに舌打ちがこぼれた。
そのトリオン兵に戦闘力はほとんどなかったこともあり、その後すぐに事態は収拾した。情報整理が行われたあとで俺は出水に謝罪し、出水もそれを受け入れて、俺たちの間でこの件はその日のうちに手打ちとなっている。
忍田さんからはお説教を食らうかなと思っていたけれど、彼は「太刀川隊長」と常はしない呼び方で俺を呼び「最善を選べるように、正しく励みなさい」とだけ告げて背中を叩いた。
「悪かったよ、昨日も謝っただろ」
「いややったのはいいっすよ別に。でもまだ全然痛ぇのに本人にとぼけられたらなんかムカつくじゃん」
「まあ……そりゃそうだな」
納得して頷けば、言いたいことを言えて満足したのか、出水はあっさり怒気をおさめて服を戻した。
一方俺は、出水が言った「痛い」という言葉がやけに耳に残って落ち着かない。重くて、苦くて、楽しくない響きだけれども、でもこれは簡単に手放してはいけないものだと、なんとなくそんな気がした。
「なあ、腹の痣もう一回見せて」
「え、なんで。いやっすよ」
太刀川の言葉をあっさり拒否した出水は、そのままトリオン体に換装してしまった。このやろう。
「んじゃおれランク戦いってきます」
「今日、二宮と三輪いるぞ」
「え、まじすか、レアキャラじゃん。太刀川さん行かないの?」
「あとで行くから。お前それまで引き止めといて、隊長命令」
「うはは、職権乱用!」
からからと笑って黒い隊服の裾を翻し、出水は部屋を出ていった。一人きりになった太刀川も小さく息を吐いてから今度こそ部屋を出る。目指すはランク戦ブース、とは反対側のA級部隊の隊室だ。
そこにいるであろう隊長たちに教えてもらいたいことがある。
END