布団のうえで目が覚めた。爪の先が畳の井草をかいて、出水は理解する。ここは太刀川の部屋だ。
ゆっくり起き上がると腹のあたりに申し訳程度にかかっていた夏用のタオルケットがずり落ちて、自分の太ももが目に入った。上はTシャツ、下はボクサーパンツという恰好はだらしなくはあるが、夏の寝巻としては特に珍しくはない。黒いTシャツは自分のものではないから、多分太刀川から借りたのだろう。
時刻を確認できるものを探そうと部屋の中を見渡せば、窓際によけられた座卓のうえに愛用の腕時計を見つけて手を伸ばす。文字盤の背景が黒に近い藍色と赤のグラデーションになっているそれは、大学入学を控えた春休みに国近と一緒に選んだものだ。
針は四時十五分を示している。ということはカーテンの隙間から細く線を伸ばしているこの光は朝日で間違いなさそうだ。八月の夜明けは早い。
「てかなんで太刀川さん家……?」
幾度も訪れた見知った場所ではあるものの、どうして自分が太刀川の部屋の太刀川の布団のうえで寝ているのか、その経緯がまるで思い出せなかった。
昨日の夜は大学の飲み会だった。同学年同学部での集まりだったからもちろんその場に太刀川はいない。それは覚えているのだが、店を出て解散したあたりからの記憶が抜け落ちている。こんなことは初めてだった。
「うーわ、なんもわかんねえ……」
舌先だけでそう呟く。吐息のような小さな声は自分でも音を拾うことが困難だった。
二十歳の誕生日を経て、酒を飲むようになり一年弱経つが、太刀川をはじめ先輩たちの濃すぎる失敗談を聞いていたこともあって出水はそこまでひどい飲み方をしたことはない。いつ呼び出しがかかるかもしれないし、女子がいたら駅くらいまでは送ってやれる甲斐性のある男でありたい。気心知れた相手だと飲みすぎて二日酔いになったこともあるが、その程度のかわいいものだ。
うわ記憶飛ぶってこんな感じなんだな。
記憶がないにも関わらず、出水はそこまで焦っていなかった。頭はかなりすっきりしているし吐き気もない。なにより酔った状態で、行き先として彼氏の部屋を選び、無事たどり着いているというのはある意味理性的なのではないだろうか。昨日のおれよくやった。
大方思いつきで押しかけて、そのまま太刀川の寝床を奪ったのだろう。迷惑をかけてしまったのは間違いないし申し訳ない気持ちもあるが、こちとら高校生の頃から二日酔いに喘ぐ太刀川にはミネラルウォーターやらしじみの味噌汁やらウコンのドリンクやらを差し入れしてきたのだ。これくらいの恩を返してもらっても罰はあたらないだろう。
……というかそもそもあの人どこいんだ。
1DKのこの家には間仕切りがない。和室とキッチンスペースの境目に敷居はあるものの、そこにあったはずの襖は「無い方が楽」という理由でずっと外されている。
そんな見通しの良い小さなこの部屋に、家主の姿が見当たらないのはおかしな話だ。
出水が泊まる夜、それでまぁ、こう、ちょっといやらしい感じで触ったり抜いたり舐めあったりするときはそのまま同じ布団で眠ることもあるけれど、そうじゃないときはボーダー支給品の寝袋とかブランケットとか座椅子とか、柔らかいものを駆使してそれぞれ別に眠ることもある。けれど寝床をつくる場所としてはこの和室以外ないはずなのに。
「太刀川さん」
呼びかけるが返事はない。つけっぱなしにしてもらったクーラーのおかげで寝汗はかかずにすんだが喉と唇が乾いている。
出水は立ち上がり、ひとまず水をもらおうと流しに向かった。裸足で畳を踏みながら、この感触も久しぶりだ、と思う。
最近あんまりこの部屋には来ていなかった。別に避けていたとかケンカをしたとかじゃなくて、お互い行動範囲が広がって、タイミングが合わず頻度が下がった、ただそれだけだ。関係に変化があってまだ3ヶ月弱だが、本部では顔を合わせるし、わざわざ言うほどの不満でもない。あっちも多分そうだろうと思っている。
でも、だからまぁ、酔っ払った自分を迎え入れ、着替えを貸して、布団も譲ってくれたことは素直に嬉しいし、そういうふうに太刀川が甘やかしてくれた事実に少し安心した。
外の光が届かない場所はまだ夜の気配がする。タイルの床を数歩いった先の流しの横の作業台には、柑橘系のチューハイの空き缶がひとつと、透明なグラスがふたつ置いてあった。拝借しようとグラスに手を伸ばした瞬間、足元の空気がもったりと動きだし、出水は思わず声を上げた。
「うわっ!! 太刀川さん!?」
「……起きたのか」
冷蔵庫の前でうずくまる、大きな黒いかたまりは太刀川だった。
「え、なんでトリオン体?」
暗くて一瞬分かりづらかったが彼はロングコートをまとっている。緊急の呼び出しでもあったのだろうか。両足をゆるく折って座り込んでいる姿は狩りの前の獣のようで、遠征時のそれに重なった。
「まあ待て、順番に教えてやるよ。ああ、お前具合は? 頭痛いとかあんのか」
「いやないっすね、めっちゃすっきりしてます」
「そりゃなによりだ。寝る前にめちゃくちゃ水飲ませたからな。感謝しろよー」
「ほんとにマジでありがとうございました、えーと、あの、すんません、おれ、昨日」
「うん」
太刀川はゆっくり立ち上がると、グラスに水を汲んでくれた。なみなみと注がれたそれを慎重に受け取り、一口飲んでから和室に向かう太刀川のあとをついていく。タイル張りの床がぺたぺたと鳴った。
「どこまで覚えてんの」
「学部のやつらと飲んでて、店出たとこまで……正直なんでここいるのか分かんないっす」
「ははは、そりゃ豪快にとばしたな」
いやぁすいません。太刀川に合わせて口角を持ち上げようとしたものの、ほのかな違和感が出水の胸を刺す。あれ、と思った。なにかが変だ。
太刀川は畳の上にあぐらをかくと、出水にも布団のうえに座るように促した。持っていたグラスは座卓に置いて太刀川と向き合って腰を下ろす。
「記憶なくなるまでってどんな飲み方したんだ、お前別に酒弱くなかったよな」
「いやまあ強くもないですけど、でもマジでそんな量飲んだ覚えないんですよ」
それは本当だった。無茶なペースでもなかったし、飲んだのはハイボールとサワー系。それと。
「あ、そういや初めて日本酒飲みました……え、もしかして」
「そういうパターンか。たまにいるよな、特定のだけ変な酔い方するやつ。加古も強ぇのにワインだけダメなんだよ」
「へえ、意外っすね。ワイングラスめっちゃ似合うのに」
そうだなあ。太刀川は相槌を打ちながら、軽く顎をしゃくって座卓を示した。
「ウチ来る前のことは分からんが、日付まわったくらいにお前が来たんだよ、酒とかそのへん持って」
天板の上にはビニール袋があった。さっき腕時計を回収したときは気づかなかったけれど、記された赤色のロゴはここから一番近いドラッグストアのものだ。以前も歯ブラシや手土産がわりのスナック菓子なんかを買うために立ち寄ったことがある。太刀川は腕をのばして出水が買ったらしいそれを袋ごと掴むと自分のそばへ引き寄せた。
「お前来るときいつも連絡よこすじゃん、それがなかったから珍しいなって思ったんだけど、別にそんなベロベロでもなかったから普通に部屋あげてやったわけだ」
「マジすんません、ありがとうございました」
「はじめ台所の、そこんとこで風呂入るかとか飯食ったのかとか適当に喋ってたんだけど、そしたらお前がいきなり俺の頭に缶チューハイぶっかけてきたんだよな」
「……………………ん?」
なめらかに告げられた内容を出水は受け止め損ねる。待って今この人なんて言った?
「…………おれが」
「出水が」
「太刀川さんに」
「そう」
「ちゅうはいぶっかけた」
「うん、一本まるまる。缶ひっくり返してどばどばだ」
単語をひとつずつを捕まえ、かたちを確かめるようになんとか消化していく。昨日、おれが、缶チューハイを、まるまるいっぽん、太刀川さんに、ぶっかけた。
「…………からかってます?」
そうであってくれ。いっそ縋るような気持ちで尋ねれば、太刀川は片側の口角だけ器用にもちあげると悪役みたいに笑いながらトリガーを握った。トリオン体の換装が解けていき、部屋に濃く甘い匂いがひろがっていく。そしてあっという間に太刀川の生身の身体が出水の目の前に現れた。不自然に濡れ固まった髪。それをかきあげているせいで露わになっている額。うっすら濡れている裸の上半身。黒いスウェットズボンにまだらについた染み。
「冷蔵庫の前んとこ水たまりできたんだぞ。俺も寝るとこだったし、一瞬マジで殴りそうになった」
はっはっは。わざとらしく笑いながら太刀川は背後のキッチンを指さしてみせる。急速に背筋が凍り、血の気が引いた。信じられない。信じたくない。けれど突きつけられた証拠が圧倒的すぎて、流石にこれが全部太刀川の狂言とは思えなかった。
いやおれヤバすぎだろ……!
深夜にアポ無しで押しかけてきた相手にこんな暴挙を働かれたら自分なら蹴り飛ばして追い出している。こんなの泊めるどころか殴られていても文句は言えない。嫌われても、仕方ない。
「っ、太刀川さ、」
もう謝るしかない。土下座するつもりで勢いよく布団に両手をつくが、出水が頭を下げるより早く、太刀川の手が出水の顎を大きくすくいあげた。そのまま強めに持ち上げられて首筋が引き攣る。太刀川はまっすぐ出水を見ていた。蜜のような匂いが強くなる。
「だけどさ、そのあとお前が『いい加減ちんこ挿れろくそ髭』ってキレてきたもんだから、なんか毒気ぜんぶ抜かれちゃったんだよな」
瞠目。出水はもう声も出せなかった。
それはひとりきりの秘密の不満だった。触ったり舐めたり教えたり、あらゆることをされて、ていうか人差し指で穴のふち触るまではしたくせに、一向にその先に進もうとしない太刀川へ、ひと月近く抱えていた苛立ちだった。
この憤りをどうすればいいのか分からなくて、はじめは見ないふりをして放っておいた。そうしたら熟れすぎて、ますます触れ方が分からなくなってしまった。
そんなぐちゃぐちゃな心を自分から晒すつもりなんて当然なかった。伝えるにしても「おれはどっちでもいいけど、太刀川さんがしたいなら、まあいいっすよ」というラインを保ちたかったのに。
なのに、昨日の出水が真正面からぶちまけてしまったらしい。
太刀川は出水の顔を解放し、傍らのビニール袋をひっくり返して見せた。目の前でシンプルなローションボトルと「人生を変えろ!」というキャッチコピーが踊るコンドームの箱、そしてスナック菓子がぼとぼとと零れ落ちていく。とどめを刺された心地だった。
―――本当になにしてくれてんの昨日のおれ。
眩暈がしそうだった。目覚めたときのすっきりした心地が嘘みたいだ。もしかして全部吐き出したからすっきりしてたのか。最悪すぎる。
太刀川はビニール袋を畳に放ると、硬直している出水の身体をゆっくり布団に押し倒してその上に覆いかぶさった。下半身が密着し、芯を持ち始めた太刀川の性器がぐっと押し当てられる。出水は慌てて声をあげた。
「ちょ、え、待って!」
「出水お前さ、あんなキレ方する前にほしいとかやりたいとか、もうちょっとストレートに表現した方がいいぞ。こっちのが恥ずかしいだろ」
元はといえばあんたが! そう言いたかったのに噛んでふくませるみたいに耳元で囁かれて音にできない。そして出水の恋人は「そうしたら全部くれてやるのに」と悪魔みたいに笑ってみせた。
END